今年の2月下旬、雑渡さんと二人で配本に行った。
帰りも私が運転するはずだったのに、雑渡さんは「名無しさんちゃんの運転は怖いから」と私を助手席に押し込めた。
雑渡さんの巧みな運転技術に関心しながら、助手席でのんびりと景色を眺めた。
雑渡さんでよかった。
本当は高坂君と二人で行くはずだったので、前日から気が重かった。雑渡さんは営業部長とはいえ、とても気さくなので、狭い空間で一緒にいるのもそれほど苦痛ではない。
「この間の差し入れのチョコ、すごく美味しかったです」
「じゃあ、お店教えてあげるよ。あとね、あれは差し入れじゃないから」
「……そうなんですか?」
「逆チョコだったのに」
拗ねたように雑渡さんが言うので、よくよく考えてみれば、確かにあの日はバレンタインだった。
「お返し、皆で相談しておきます」
「私は名無しさんちゃんから貰えれば、それでいいんだけど」
「……ははは」
軽く受け流すと、他愛ない会話が続いていた車内が、不意に静かになった。
これといった話題もないし、諸泉君の話でもしようかな。そう考えた私が口を開くより先に、雑渡さんが言った。
「名無しさんちゃん、何か気付かない?」
「えっ? もしかして……私、ミスしましたか?」
何をやらかしてしまったのだろう。
運転は雑渡さんだから、道を間違えたわけではない。配本に行った書店でミスをしたなら、雑渡さんがその場で指摘してくれるはずだ。となると、一体何なんだろう。
今日の記憶を総動員するけれど、それらしいものは思い当たらない。
助手席で慌てふためく私に、雑渡さんは苦笑した。
「名無しさんちゃん、仕事の話じゃないよ」
よかった、と胸を撫で下ろしたのも束の間、雑渡さんの言葉に私は目を丸くした。
「私、名無しさんちゃんのこと特別扱いしてるんだけど」
「……え?」
雑渡さんは、とてつもなく大きな溜息を吐いた。落胆というより、呆れているみたいだった。
「気付いてなかったのか。鈍い子だねぇ……」
「えーっと、冗談ですよね? だって別に特別扱いなんて、されてないですよ。雑渡さん、皆に優しいじゃないですか」
「営業で貰ったお菓子も、差し入れも、渡すときは絶対に名無しさんちゃんに渡してるじゃない」
そうだったかな。
お菓子に気を取られていたけれど、言われてみればそうかもしれない。
でも、たまたまそうだったとも言える程度のことだ。
「ランチだって、一応その場にいる人にも声を掛けるけど、名無しさんちゃんがいなけりゃ誘わないし」
本当かな。自分がその場にいないときのことは知りようがない。けれども、私が外に出ている間に編集部の皆が雑渡さんとランチに行ったという話は、今まで聞いたことがないかもしれない。
しかし、これも偶然といえる程度のことだ。
「飲み会で名無しさんちゃんの隣って、陣左か尊奈門でしょ」
「……そういえば、大体そうですね」
確かに、いつも私の隣では諸泉君が烏龍茶かジュースを飲んでいる。それなのに、ふと気付くと雑渡さんが隣にいる。というのが殆どのパターンだ。
「あれ、途中で私が名無しさんちゃんの隣に移動するために、場所取りさせてるんだよ」
なにそれ怖い。今、車に2人きりなんだけど、これ大丈夫なのかな。運転を任せたのは失敗だったというか、罠だったのかもしれない。
会社に電話してみようかな。半助君に電話しても仕事中だろうし、どうしよう。
赤信号で飛び降りた方がいいのかな。
「なーんてね。全部、嘘だから」
雑渡さんがくすくすと笑った。
「う、嘘?」
「びっくりした?」
「当たり前じゃないですか!」
大通りの交差点で、赤信号にひっかかった。前後左右を車に囲まれて、なんだか少し居心地が悪かった。
雑渡さんは真顔になって私を見た。
「これで、名無しさんちゃんは私を意識するようになるよ。毎日、目で追ってくれる日も近い」
「わ、私……彼氏……いますから」
ふーん、と言って、雑渡さんは口を閉ざした。
つまらない返しをして、気分を害してしまったかな。きっと冗談だったんだよね。ノリが悪かったかな。
私が反省しているうちに、車が動き出した。
「忘年会で、彼氏いないって言ってなかった?」
「あの時はまだ……」
「そうか。出遅れたな」
いつになく真面目な口調に驚いて、雑渡さんを見た。横顔は進行方向を真っ直ぐに見つめていて、私など隣にいないようだった。
「好きかどうかは置いといて、名無しさんちゃんのこと気に入ってるんだよね」
どういう意味だろう。なににしろ、私を困らせるには十分だった。
早く会社に着かないかな。そればかりを考えて、私は助手席で俯いていた。雑渡さんも口を開かなかった。
これなら、高坂君とのほうがよかったな。
会社の駐車場に車が停まったのと殆ど同時に、私は飛び出すように車から降りた。
荷物を降ろすために車の後ろに回ると、雑渡さんも反対側から近付いてきた。それに気付かない振りをして、荷物を出したまではよかったのだけれど、手が塞がってしまったせいで、うまくドアが閉められなかった。
「私が閉めるよ」
少し呆れたように言いながら、雑渡さんがドアを閉めてくれた。
「それ重いでしょ。持つよ」
「いえ、大丈夫です。すぐそこまでですから」
「そう?」
素っ気なく言いいながら、雑渡さんは車から離れようとしたけれど、すぐに踵を返した。
「うっかり忘れるところだった」
雑渡さんは後部座席から黒の中折れ帽を取り出した。それは彼のトレードマークのようなものだ。陰では「あの帽子で胡散臭さが増す」とも言われているけれど。
「名無しさんちゃん」
「……はい」
背の高い雑渡さんを見上げると、逆光の中で彼は不敵に笑んだ。
「本気になったら、君に彼氏がいても関係ないから」
その意味を理解するのに数秒かかった。
私はひたすら戸惑いながら、何も言えずに口をぱくぱくさせていた。
「彼氏から名無しさんちゃんを奪う」
驚く間も与えずに、雑渡さんは私に中折れ帽を被せた。そして、目隠しするように帽子を引き下げる。
「覚えておいて」
耳元で囁かれるのと同時に、持っていた荷物が奪われた。
触れるか触れないかの距離でようやく届く、香水かローションの大人な香り。それが私の鼻先をくすぐって、ドキドキした。
慌てて帽子を脱いだ私の前に、雑渡さんの姿はなかった。彼は既に駐車場から出ていこうとしているところだった。
熱い頬が後ろめたくて、私はのろのろと彼の後を追った。
帽子を返さなくてはいけないので、雑渡さんと話をしなければいけない。仕事もあるので、どちらにしろ避けるわけにはいかなかった。
私には彼氏がいるのだから、意識しないようにしよう。
そう考えれば考えるほどに、帽子から仄かに漂う香りが気になってしかたがなかった。