利吉君

「お先に失礼します」
 
 編集部を後にして、階段を下りていく。
 雑用は諸泉君が片付けてくれたこともあり、やることも殆どなくなったので、定時で帰らせてもらうことにした。
 今日は何を食べようかな。
 食材は昨日使ってしまったので、冷蔵庫にはろくなものがないはずだ。このの近くの商店街で、買い物を済ませてしまおうかな。
 ドアを開けた途端に、冷たい風が顔に吹き付けて、私は思わず目を瞑った。
 目に映る景色は冬の夜。
 12月なので、早い時間でも真っ暗だ。
 
「車で来ればよかった」

 呟きながら、マフラーを口元に寄せる。
 普段は車での通勤だけれど、今朝は早起きついでにバスで来てしまった。それに、景色を眺めていたら気分も変わるかもしれないと、微かに期待をしていた。結局、大した効果はなかったけれど。

「名無しさんさん」

 今日は、練り物たっぷりのおでんでも作ろうかな。
 夕飯のメニューを考えながら歩いていると、後ろから呼びかけられた。
 これは、あの子だ。
 振り向いてみると、予想通りの人物が駆け寄ってくるところだった。
 
「利吉君……ここで何してんの」
「たまたま、近くを通りかかったら名無しさんさんが見えたので」

 そう言って白い息を吐きながら、利吉君はにこりと笑う。
 さすがにそれは嘘だろう。と心の中で返しながら、私も笑みを返した。
 この先にある小さな商店街に、一体どんな用事があるというのだろう。ここから数分車を走らせれば、すぐに駅前に出る。第一、利吉君が住んでいるのは、駅を挟んでこことは逆の方向のはずだ。
 今日限りのことならまだしも、月に数回の偶然は果たして偶然なのだろうか。神社に合格祈願に来ていた、というのならまだ分かるけれど、そうではなさそうだ。
 ちらり、と数メートル先にある神社への石段を盗み見た。
 
「利吉君、今日はバイトお休み?」
「はい。名無しさんさんは、お仕事終わったんですか?」
「うん。帰るとこ。それで、うん……えーっと……私、食材買って帰るから……」
「それなら、ご一緒します」

 ご一緒しなくていいんだけど。
 猟犬のような利吉君を連れての買い物は、確実に気疲れするので、予定変更は止むを得ない。
 携帯で時間を確認すると、急げばバスに間に合いそうだった。

「やっぱり買い物はいいや。今日、バスだから、向こう」
 
 喋りながら歩きだす私に少し遅れて、利吉君がついてくる。

「お父さんは、お元気?」
「はい、お陰様で。会ったのは先月なので、今は忙殺されているかもしれませんけど」
「師走だからねぇ」

 利吉君のお父様である山田伝蔵先生は、私の小学校時代の恩師だ。そして今はなんと、半助君の職場の先輩でもある。
 利吉君に初めて会ったのは、私が12歳で彼が6歳の時。山田先生のお宅にお邪魔したその日以来、何故か懐かれている。
 私は小学校を卒業後、何度か引っ越しをした。進学を機にひとり暮らしを始めたので、実家があるのもこことは別の市だ。山田先生の勤務先も当時とは異なるので、この街で山田先生と利吉君に再会したのは、本当に偶然だった。
 利吉君も実家のある田舎から、山田先生の単身赴任先のこの街に進学したらしく、時々こうして会うことがある。
 月に数回の「偶然」は、私はどうも違うような気がしているけれど、永遠に気付かない振りをしていようと思っている。
 気付かなければ、可愛い弟みたいなものだ。

 いつの間にか隣を歩く利吉君の顔を、なんとなく見上げてみる。昔は私より小さかったのに、随分と背が伸びた。

「どうかしましたか?」
「ううん……利吉君は、年末年始は家に帰るの?」
「バイトがあるんですが、元旦くらいは帰ろうかと思ってます」
「お母さんが寂しがってるんじゃない?」

 そう言うと、利吉君は苦笑した。それ以上は何も言わない。
 こぢんまりとした文具屋の前を通ると、年賀状向けのスタンプや干支の絵が入った葉書が、店のガラス戸越しに見えた。

「年賀状の季節だね」
 
 独り言のように言ってみると、利吉君は短く笑う。

「父が、『毎年欠かさず年賀状をくれるのは、あのクラスでは名無しさんさんだけだ』と言っていましたよ」
「そうなの?」
「そうらしいです」

 少しだけ驚いた後、ひとり納得した。行く人もの先生にお世話になってきたけれど、いつの間にか山田先生以外には年賀状を出さなくなった。皆、そうなのだろう。
 ようやくバス停にたどり着いて、なんとなく安心する。
 しかし、利吉君と駅まで一緒なのだろうか。

「名無しさんさん」
「ん?」

 利吉君を見たけれど、彼は緊張したような表情でどこか別の場所を見ていた。

「24と25日……それか、23日のご予定は?」

 23日の予定まで訊いてくるとはぬかりない。
 どう答えようか、と考えながら時間稼ぎにバスの時刻表を確かめた。
 時刻表通りなら、1分程度で来るだろう。
 
「彼氏と会う予定。あとは仕事」
「えっ……いるんですか、彼氏」
「いるよ」

 どうして驚いているのか分からないが、なかなか失礼だ。24歳の女に彼氏のひとりやふたり、いてもおかしくないでしょうが。
 山田先生は私と半助君の関係を知っているけれど、利吉君には話していないようだ。さすが山田先生。
 どこかのお喋りとは違う。

「利吉君、クリスマスの予定を訊きに来たの?」
「まさか、偶然だと言ったじゃないですか。用事があったんですよ」
「そう」
「そうです」
「利吉君、クリスマスはどうするの? 彼女……」

 いるの、と言い終わる前に、利吉君が口を開く。

「今年のクリスマスはバイトを入れることにします」

 その強い口調に色々と察して、私は話題を変える。「そういえば、受験生じゃないっけ? バイトしながら勉強してるの?」
「あー……まぁ、それなりにやってますよ」
「それなりって……もう進学先決まってるの?」

 私の質問には答えずに、利吉君は曖昧に笑うと車道へ目をやった。

「バスが来ましたよ」

 言いながら、一歩後ろに下がった。

「……利吉君は乗らないの?」
「この後もまだ用事があるので」

 寒さで鼻の頭を赤くしながら、利吉君は不貞腐れたような顔をした。
 ああ、きっと原付で帰るんだな。
 そう思ったけれど、彼の面子に関わるので何も言わないでおく。
 もしかしたら、本当に用事があるのかもしれないし。

 アナウンスと共に、バスの乗車口が開いた。

「早く帰るんだよー。またね」
「子供じゃありませんよ」
「未成年で、高校生でしょ」

 笑って言いながら、私はバスのステップをあがった。
 バス停側の座席に腰を下ろし、荷物を膝に載せながら窓の外に目をやると、利吉君と目が合った。
 手を振ってみると、彼は恥ずかしそうに小さく振り返す。
 素直なのか素直じゃないのか分からない。ちょっと面倒なところがある子だけれど、こういうところは昔から可愛い。
 バスが走り出して少しすると、利吉君の姿はすっかり暗闇に紛れてしまった。

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