大木さん

 近所のスーパーに寄ってみると、おでんの具材が値引きされていたので、少し多めに買ってしまった。
 「夕飯食べに来ない」なんて半助君を誘ってみようかな。練り物嫌いにおでんなんか出したら、また喧嘩になるだろうか。
 くだらないことを考えてみる。

「名無しさんじゃないか。奇遇だな」

 誰だろう、と振り向いて後悔した。足早に近付いてくるのは、大木さんだ。

「げっ」
「げっ、とは何だ」
「いや、ははは……」

 捕まりたくない人に捕まってしまった。
 走って逃げようか、と考えたけれど。荷物が多いうえに大木さんを撒く自信はないので、やめておくことにした。

「仕事帰りか?」
「はい」
「どうだ、飯でも食わんか? 奢ってやるぞ」

 黙って微苦笑を返す。
 まさかこれはデートの誘いだろうか、それとも単に夕飯を食べるだけなのか。
 黙って悩んでいると、次の質問が飛んでくる。

「忙しいのか?」
「暇ではないです。予定はないですけど」
「なら、うちに来い」
「ええっ! 何言ってるんですか!」
「あほ、冗談だ」
「で、ですよね」

 この人の発言はいつも、どこまでが冗談か判断しかねる。そもそも出会いが出会いだけに、警戒してしまう。
 私の考えを見抜いたように、大木さんは眉を顰めた。

「名無しさんはいつまで経っても、わしを警戒しとるな」
「……そんなことは」

 ある。ナンパが出会いなだけに、どうしても身構えてしまう。

 大木さんに声を掛けられたのは、去年の今頃だった。
 私は駅で待ち合わせをしていた。

「おい」

 まさか自分が声を掛けられているとは思わずに、私は携帯を見ていた。

「おい」

 という声の近さに思わず顔を上げると、大木さんが私を覗き込むように見ていた。
 私は驚いて、後ずさった。
 大木さんの格好はとてもラフなもので、帰宅する勤め人やこれから遊びに向かう人々の中で大分浮いていた。

「あんただ、あんた」
「わ、 私ですか?」
「そうだ。あんた、わしと飲みに行かないか?」

 思考が止まった。
 大木さんが背景にしているイルミネーションが、キラキラと瞬いて、余計に私の思考を鈍らせた。
 それでも私はどうにか口を開いた。

「えっ……あ、いえ……あの、私、友達と待ち合わせしてるんで……すみません」

 待ち合わせの相手は半助君だったけれど、まだ恋人ではなかった。殆ど付き合っているようなものだけど、実際は何もない微妙すぎる関係の頃に一番悩んでいた頃だ。
 まして、大嫌いなシーズンだから尚更だった。
 ほんの一瞬だけ、このままついて行ってしまおうかと思った。
 大木さんはそこまで怪しい人には見えなかったし、私は半助君との関係をどうするか悩むのに疲れていた。多少の危険はあれど、現実逃避がてら赤の他人と飲むのもいいかもしれない。というようなことも、僅かに考えていた。
 でもその時、私の携帯が鳴って、それは現実にはならなかった。
 電話の主は半助君で、少し遅れるという連絡だった。
 短い会話の後に顔を上げると、大木さんはいなくなっていた。
 ナンパなんてそんなもの。
 よくあることだからと気にしていなかったのだけれど、その翌週くらいから、何故か大木さんと近所の道端で会うようになった。
 近くに住んでいるというのだが、遭遇する頻度が高すぎて、ストーカーじゃないかと疑ってしまうことが多々ある。
 害があるわけではないし、ナンパが出会いだということと、考えすぎだと言われるのも嫌なので、半助君には話していない。


 不意に、大木さんがビニール袋を差し出した。
 受け取りたくなかったので気付かない振りをしようとしたけれど、目の前に掲げられてしまうと手を出すしかなかった。

「ほれ、ラッキョだ。持っていけ」
「……どうも……ありがとうございます」

 やっぱり、またラッキョ。
 壷じゃないだけましだけれど、家には大木さんからのラッキョが既に3瓶ある。やっと減ったと思ったのに。
 明日、諸泉君か山本さんに押しつけよう。

「じゃあ、この辺で! さようなら!」

 荷物で一杯の手を、高く振りあげる。
 この1年で学んだのは、大木さんから逃げるには勢いが大事だということだ。彼のペースに乗せられていては、いつまでも捕まったままだ。
 打破するには勢いあるのみ。

「待て、わしも同じ方向だ」
「ええっ……そうでしたっけ?」
「何を今更」

 逃走の成功率が3割だということは置いておくとして、大木さんに住んでいる場所を知られたくない。既に知られている可能性はすこぶる高いけれども、知られているということを知りたくない。
 ラッキョの瓶を増やしたくない、ということもある。
 大木さんはどこに住んでいるのだろう。あまり詳しく知りたくないのだけれど、敵を知らないのもまずいかもしれない。悩むところだ。
 とにかく逃げられないようだ。荷物も重くて、疲れてしまった。
 私が意気消沈したのが伝わったのか、大木さんは投げやりに声を上げた。

「分かった、分かった。わしはコンビニに行く。それでいいんだろう?」
「はい」

 実はこれも、いつものパターンだ。
 大木さんは大概、コンビニに行くと言って私を逃がしてくれる。得体の知れない人だけれど、なんだかんだで大木さんは優しい。
 とはいえ、あまり関わりたくない。
 大木さんの後ろ姿を見送って、私はアパートへと向かって走った。
 途中で二度、後ろを確認した。

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