ドアを開けると、奥の部屋からテレビの音がしていた。キッチンと寝室の仕切りの戸についた曇りガラスの窓。その向こうは薄暗く、テレビ画面からの明かりが揺れるのが見える。
「ただいまー」
玄関脇にあるスイッチを押して、キッチンの電気を点ける。
いつもと同じ玄関に、小さな靴が一足。
「……おかえりなさーい」
がらり、と戸が開いて、出迎えてくれたのはきりちゃんだ。目をしぱしぱさせているので、炬燵で眠っていたのかもしれない。
「電気点けなよ。目が悪くなっちゃうよ」
「えー……勿体無いじゃないですか」
眼鏡もコンタクトも高いよー、と言いながら買い物袋を冷蔵庫の前の床におろすと、テレビの音が消えて寝室の明かりが点いた。
「もう外、真っ暗だよ。帰らなくて平気?」
きりちゃんは得意そうに笑う。
「まだ大丈夫っす。あと30分くらいなら」
「でも夕飯の時間過ぎたんじゃない? 怒られちゃうよ」
「今日はちゃんと先生に許可もらったから、8時まで大丈夫です」
普段は無許可で遊びに来る。
本来は学校から寮に真っ直ぐ帰らなくてはいけないみたいだけれど、友達や先輩たちとその辺をうろうろしているらしい。
ゆるい校風なのか、夕飯の時間までに戻っていればお咎めなしみたいだ。
「先生って、山田先生?」
「土井先生っす。今日は寮に泊まるみたいだったんで」
「そうなんだ……うちに来るって言ったの?」
「いえ、中在家先輩に頼んで、委員会の用事ってことにしてもらって来ちゃいました」
「不良だー」
ふたりで、くすくすと笑う。
○
半助君を介してきりちゃんと知り合ったのは、一昨年だ。3人で買い物をしたり、遊園地や水族館に行ったりして過ごしてきた。半助君と恋人になってからも、それは変わらない。
きりちゃんが一人で遊びに来るようになったのは、去年の春からで、合い鍵を渡したのもその頃だった。
4月の終わりの、まだ寒い日だった。
私がにわか雨に降られながら、コンビニからアパートに戻ったのは、きりちゃんとの約束より少し早い時間だった。
けれども冷たい雨の降る中で、きりちゃんは不安そうにドアの前に立っていた。
「きりちゃん! ごめん、ちょっと買い物に行ってたの」
「あ……おかえりなさい、名無しさんさん」
きりちゃんはぽつりとそう言って、ほっとしたように笑った。
私はドアの前に一人佇む彼を想像したくなくて、次に会ったときに合い鍵を渡したのだった。
留守中の部屋に赤の他人である小学生をひとり置いておくのは、いいことではないのは分かっている。その件について半助君に相談しようと思ったまま、時間だけが過ぎていく。
○
「ご飯食べる?」
「乱太郎としんべヱが、おにぎりとっといてくれるって言ってたので、大丈夫です」
「そっか。じゃあ、ココア飲もうか。牛乳出してー」
「はい」
学校の話を聞きながら、ココアを入れる。
キッチンに甘い香りが漂う中で、私はあるものの存在を思い出した。
「そうだ!」
急いでそれを手にとって、きりちゃんに見せる。
「きりちゃん、ラッキョ持って帰らない?」
「頂きます!」
ただなら大概のものは貰ってくれるので助かる。これで冷蔵庫がラッキョで埋まる悪夢を見なくてすむ。
私たちはココアを片手に炬燵に入った。
きりちゃんは湯気の立つココアのカップを、ふうっと吹いている。
そんなに熱くないはずだけれど、と思いながら一口飲んでみると、少し冷ました方が良さそうだった。
「そうだ、きりちゃんはクリスマスどうするの? 遊びに来ない?」
半助君と会えないのは仕方がないとしても、ひとりきりのクリスマスは避けたい。仕事か、友達と遊んでもいいのだけれど、せっかくのクリスマスだから大事な人と一緒にいたい。
きりちゃんとだったら、絶対に楽しい。
「クリスマスは、土井先生と会うんじゃないんですか?」
「仕事忙しいみたいだし、家でゆっくりしたいのかもしれないし……まぁ、クリスマスじゃなくてもいつでも会えるしね」
自分の口から出た言葉が刺さる。
クリスマスなんて、クリスチャンでもなんでもない自分には、特別な日ではないはずだ。イベント好きってわけでもない。
でも、やっぱりクリスマスなんだよね。クリスマス。
よく分からないけど、恋人がいるなら恋人と一緒にいたい日。
そして3年前のあの出来事を上書きしたい。
「24日、できるだけ早く帰ってくるから、パーティーしようよ。チキン買って帰るから!」
「3人でですか?」
「うん。先生は仕事かもしれないから、きりちゃんと私だけでも」
そうっすねぇ、と嬉しそうに言って、きりちゃんはココアを飲む。
「あ、でも24日は、クラスのみんなとクリスマス会をするんだった」
「学校で?」
「しんべヱの家です」
そう言って、きりちゃんは沈んだ表情になる。
「どうしたの?」
何かあったのかな。
いじめがあるようなクラスじゃないし、また補習があってクリスマス会に出られないのかな。でも、それならクラスの皆も一緒なはずだ。ということは、クリスマス会自体ができるかどうかを心配しているのかな。
補習なんて他の日にしてあげればいいのに、半助君ってば気が利かないな。とはいえ忙しそうだし、そんなことも言っていられないか。
私の考えていたことは、的外れもいいところだった。
「……実は」
「うん」
「プレゼント買わなきゃいけないんすよ……500円くらいの」
きりちゃんは深刻そうに溜め息を吐くと、炬燵の天板に頭をぶつけそうなほど俯いた。
なるほど。どケチの心配ごとはそっちだったか。確かに、小学4年生には500円はなかなかの金額だ。特に、きりちゃんにとっては。
そんなことか、と言うのは申し訳なさすぎて、返事代わりに小さく唸りながら、明日の予定を頭の中で確認する。
うん。多分、大丈夫だ。
「明日、待ち合わせして買い物に行こうよ。3時半頃に、アーケードの薬局の前でどう?」
えーでも、ときりちゃんはやる気がなさそうに言う。
「名無しさんさん、仕事じゃないんすかー?」
「明日は街の方に用事があるんだー。遅くても4時には終わるから。絶対行くから、待っててくれる? でも、門限に遅れそうになったら帰ってね」
きりちゃんは携帯を持っていないので、連絡が取れない。約束は絶対だ。
「3時半に薬局っすね。待ってます」
「じゃあ、約束ね」
指切りをして、にこにこと笑顔でココアを飲むきりちゃんを眺める。
ずっとうちにいればいいのに。それはそれで大変かな。でもきっと楽しいだろうな。きりちゃんが、家族だったらいいのにな。弟と子供と、どっちだろう。まぁ、きりちゃんはきりちゃんなんだけど。
不意に、きりちゃんと目が合った。
「名無しさんさん、どうしたんすか?」
「ああ……そろそろ帰ったほうがいいかな、って」
私がそう言うと、きりちゃんは時計を見て、溜め息混じりに口を開いた。
「そうっすね」
「寮まで送るから、準備して」
「はーい」
きりちゃんはすぐに炬燵から出た。寒そうに身を竦めながらコートを着ると、ショルダーバッグをかける。
私が上着を着ている間に、きりちゃんは空になったカップをキッチンのシンクに置いた。
「ありがとう、置いといていいよ。行こ」
手を差し出しすと、きりちゃんは驚いたような顔をした後すぐに、バッグの肩紐を両手で掴む。
「手は、繋がないっすよ。名無しさんさん、おれ、4年生ですよ……10歳っすよ」
「別に、子供扱いしたつもりは……」
きりちゃんは不機嫌そうに私の横をすり抜けて、玄関に向かう。
怒っちゃったのかな、と心配になったけれど、靴を履く後ろ姿を見ていたら、単に照れただけなのだと分かった。
いつか、利吉君みたいになっちゃうのかな。
楽しみなような、寂しいような。複雑な気持ちになりながら、私も靴を履いた。
当然ながら車の中も寒い。
暖房を入れたけれど、なかなか暖まりそうにない。
「わー……車の中なのに、息が白くなりますね」
「冬だからね。それに、今日は冷えるみたいだね」
暖まる前に、寮に着きそうだ。車でなら寮はそれほど遠くない。裏道を通っていけば5分程度だ。
「もうすぐ冬休みだけど、小学校も期末テストってあるんだっけ? 授業はどうなの?」
「眠いです」
期待した答えとはかけ離れていて、思わず笑ってしまう。けれども彼の言うことは分かる。確かに授業中は眠くなる。
熱心に授業の準備をしている半助君を知っているだけに、複雑な気分だ。
そうこうしているうちに、寮に着いた。
「着いたよ。まだ時間大丈夫だよね」
「ギリギリセーフです」
寮の門から少し離れた場所に車を停める。まるで秘密のデートみたい。
「ありがとうございました」
「じゃあ、また明日ね」
「はい」
きりちゃんは大きく手を振ってから、門の中へと駆け込んでいった。
私も帰ろう。
そう思った途端、携帯が鳴った。
半助君からの電話だ。
「はい」
「名無しさん、今、大丈夫か?」
「うん……どうかした?」
きりちゃんが降りてからでよかった。
ばれやしないかと、どぎまぎしている私をよそに、半助君は申し訳なさそうな声を出した。
「昨日はごめん」
「ううん……仕事忙しいんだもん、仕方ないよ。私こそ、ごめん」
物分かりのいい振りをしながら、気持ちは苛立つ。でも喧嘩したままでいるのも嫌だ。
半助君は優しい。
昨日のことは私が悪い。それなのに、彼から謝るなんて。
「部屋にいるのか?」
何気ない調子での質問に、ひやっとしたけれど、すぐに返事をする。
「車の中」
「運転中じゃないだろうな」
焦った声に、小さく笑う。
「大丈夫、運転中じゃないよ」
「そうか、ごめん。仕事帰りだったか」
違うよ、という言葉を飲み込む。
本当はすぐ側にいるんだよ。
恐らく、半助君は学校ではなく寮にいるのだろう。外にいるから出てきて、と言えばすぐに会える距離。
でも、絶対に言えない。
「お疲れさま。気を付けて帰るんだぞ」
「ありがとう。半助くんも、お疲れさま」
「明後日、行ってもいいかな?」
「何時頃? 明後日は遅くなるかもしれないなぁ……結構遠くまで取材に行くから」
「それなら、電話してくれ。名無しさんがよければ、遅くてもいいから」
「分かった……じゃあ、また」
「ああ、おやすみ」
「おやすみ」
電話を切ると、どうしようもなく切なくなった。
半助君が今夜は寮に泊まるなんて、少しも聞いてなかった。勿論、お互いにいつどこにいるかを把握してるわけじゃない。だから構わないはずだ。
それでも隠し事をされているようで、無性に苛立ってしまう。
でも、私もきりちゃんを送ってきたことは内緒にしている。遊びに来たことも、合い鍵のことも秘密だ。
私の方が、秘密にしていることは多いのかもしれない。
距離を作っているのは、私なのかな。
アパートへと車を走らせていると、イルミネーションが目について仕方がなかった。