おわれるわたし、おうあなた

 この一針で、きり丸に頼まれた繕い物の山もやっと片付く。
「よーし! きりちゃんのアルバイトの手伝い終わりっ」
 ふう、と名無しさんは息を吐いて顔を上げた。
「半助さん。ちょっとだけ、どこかに出かけませんか?」
 昨日までは雪がちらついていたが、今日は大分暖かい。散歩に行くのはどうだろう。
 だが、読書をしていた半助からは、うーん、と生返事が返ってきた。
「きりちゃん、明後日には帰ってくるし」
 ふたりきりなのも明日までですよ。名無しさんはそう続けようとしたが、半助はそれを遮った。
「それなら、きり丸と一緒に行ったらいいじゃないか」
 そういう意味じゃないんだけど。
 名無しさんはその言葉をぐっと飲み込んだ。
 冬休みに入っても最初の数日は補習。やっと帰ってきたと思えば、3人してきり丸のアルバイトの手伝いに追われたのだった。子守、犬の散歩、造花作りに大量の繕い物。そのおかげで、5日が飛ぶように過ぎていった。
 請け負ってきたきり丸自身は、一昨日から団蔵の村へバイトに出掛けている。
「最近、どこにも連れてってくれないですね」
 ちらり、と半助が目を上げた。
「わざわざ出かけるほどの場所もないだろう」
「まあ、そうですけど……学園では読書の時間は取れないんですか?」
「授業や補習で忙しいんだ」
 そうですよね、分かってます。
 心の中でそう答える。裁縫道具を片付ける名無しさんからは、うきうきした気持ちはすっかり消え去っていた。
 名無しさんが繕い物を全て請け負ったのは、きり丸を手伝ってやろうというよりも半助を休ませる為だった。学期中は忙しいだろうから、せめて休み中くらいはゆっくり好きなことをして過ごしてほしい。
 しかし、丸1日とは言わないまでも、せめて数時間だけでも自分のために割いてはくれないだろうか。きり丸が留守の時くらい、構ってほしい。
 名無しさんは半助の読んでいる本に目をやった。
 もしかしたら自分は書物以下の存在なのだろうか。沢山の知識を得られる書物の方が何倍も価値があるのかもしれない。いや、それは当然だ。自分ができるのは留守の間に掃除をして、食事を作って待っている程度。
 そう考えて名無しさんは落ち込んでいく。
 様子を窺いながら溜息を吐いても、半助が名無しさんを気にする様子はない。
 思わず、口に出た。
「半助さん、冷たいですね」
 返事は返ってこない。
「学期中は全然会えないのに……」
「そんなこと、分かってて一緒になったんだろう」
 面倒くさそうな声で名無しさんの頭に血が上った。
「もういいです」
 畳んでいた着物を床に投げつけて、立ち上がると戸口へ向かう。
 ちらり、と半助に目をやると名無しさんが放った着物を畳み直しているのが見えて余計に腹が立った。
 宥めようともしないなんて。
「私なんか、いてもいなくてもいいんでしょ!」
 半助の驚いた顔が見えたような気がしたが、構わずそのまま飛び出した。
 自分があんな大声を出せるとは思わなかった。
 隣のおばちゃんには確実に、恐らく近所中に聞こえてしまっただろう。そう考えて恥ずかしくなりながら、名無しさんは小走りに家から遠ざかる。
 半助が追ってこないだろうか。
 期待しながら後ろを振り返ろうとして、足がもつれる。
「あっ」
 名無しさんは勢いよく転んだ。手を着くのが僅かに遅く、強かに膝を打つ。
「……痛い」
 乾いた地面から砂埃が舞い上がった。
 名無しさんに駆け寄る人も、助け起こす手もない。
 よろよろと自力で起き上がると、体から土埃を払う。手首にできた小さな擦り傷がひりひりと痛むが、それよりもずっと心の方が痛い。
 どうして半助は来てくれないのだろう。
 こんな男だっただろうか。夫婦になってしまうと、こんなものなのだろうか。
 さっきの半助の言動を思い起こすと、腹が立って仕方がない。加えて、家を飛び出した妻を追っても来ないなんて。
「もう知らない! 知らない、知らない、知らないっ」
 膝の痛みを忘れる程に苛立って、乱暴に歩みを進めた。
 そのまま町を一周しても名無しさんの苛立ちは治まらなかった。それどころか、いつまで経っても半助が自分を探しに来てくれないことに怒りが増す。
 自分も大人げなかったとは思うが、やはり半助の態度に納得はできない。それでも帰るべきだろうか。 町外れの路地で、名無しさんは立ち止まった。
 そうだ、夫は忍者だ。
 自分が町内にいることなど、手に取るように分かっているのかもしれない。日暮れには家に戻って夕飯を作ると思っているに違いない。
 名無しさんの中で妙な気力が沸き上がる。
「よし」
 大きく一つ頷いて、町を出る道へ足を向けた。

 名無しさんはずんずんと歩みを進め、同じように日が傾いていく。
 日中は暖かかったとはいえ、さすがに夜が近づくと冷え込んできた。時折、凍える指先を擦り合わせる。
「でも、よかった……雪じゃなくて」
 その呟きと共に出た息は白く、より寒さを感じさせた。
 名無しさんは山を越えた先を目指していた。何年も前に幼なじみがその辺りに嫁いだはずだ。そこで一晩くらいは世話になれるだろう。
 心配はその手前にあった。
 山越えだ。それほど険しい山ではないが、今から越えられるだろうか。
 日が暮れかけた今になって気付いたが、明かりもないのだ。それどころか着の身着のまま、全くの手ぶらで家を飛び出してしまったのだから、寒さをしのぐことすら危うい。
 この辺りにお堂はなかっただろうか。そこでなんとか一晩過ごせれば、あとはどうにかなるはずだ。しかし、いくら考えてもそういった場所に心当たりはなかった。
 戻った方がいい。
 頭の片隅では何度もそう繰り返していたが、どうしても来た道を戻る気になれない。
 不意に、薄暗がりで何かが動いた。
 驚きながらも目を凝らしてみると、鳥が二羽、仲睦まじい様子で跳ねていた。少なくとも名無しさんにはそう見えた。
 名無しさんの気配に気づいてか、鳥たちは慌てたように飛び立った。
 羨ましい。
 名無しさんの涙が目の縁から一粒溢れて、そこからもう止まらなかった。
 どうしてこんなことで泣いているのだろう。鳥を羨ましいと思うなんて馬鹿げている。
 だが名無しさんは半助とあんな風に散歩をしたかったのだ。ほんの少しの時間でいいから二人きりで、わざわざ用事を作って外に出たかった。
 それなのに、暗い道をひとり歩いている。
「あんな家……もう帰らない」
 そう独り言つ。
 唐突にきり丸の姿が浮かんで、名無しさんは足を止めた。
 きり丸が帰ってきたら、自分がいないことに驚くだろう。半助と名無しさんが喧嘩をすれば、彼はいつも名無しさんの味方をしてくれる。一緒に買い物に行って彼から値切る手腕を学ぶのは楽しいし、お喋りをしながらのバイトの手伝いだって嫌じゃない。
 まさか、きり丸は妙な勘違いをして自分の家出に責任を感じたりしないだろうか。彼を傷つけてしまわないだろうか。
 いや、半助ならきちんと説明するはずだ。
 名無しさんは自分を納得させるように頷いて再び歩きだしたが、その歩調はすっかり勢いを失っていた。
 夕飯の支度をしてこなかった。そういえば味噌が切れそうだった。来週はどぶ掃除をしなければいけないが、半助は分かっているのだろうか。洗濯物は取り込んだだろうか。
 半助は心配しているだろうか。
 ぽつぽつと生まれる小さな懸念が、名無しさんの足を重くする。
 未だ止まらぬ涙を手で拭いながら、進む先を見た。
 生い茂る木々が、大きな口を開けたような闇を作り、風は獣や人の声のような音を立てている。
 恐ろしい。とてもこの山を越えられる気がしない。
 それでも思い切って入ってしまえば、案外に目が慣れて進めるのではないだろうか。星も明るい。じきに月が昇るはずだ。
 もしだめなら、引き返せばいい。
 まるで入水するような気持ちになりながらも、名無しさんは山道に足を踏み入れた。
 突然、強い力で手首を掴まれる。
 恐怖が名無しさんの体の芯を貫いたが、耳に届いたのはよく知った声だった。
「日が暮れたのに、山に入る奴があるか!」
 きり丸を叱っているのは何度も見たが、これほど切迫した怒鳴り声を聞いたのは初めてだった。
 この人はどうして怒っているのだろう。
 名無しさんは呆然と夫を見上げた。
「行くところ……ないんだもの」
「帰ってくればいいだろうが。町を一周したら帰るのかと思えば……」
 半助はむっとしたような顔でそう言って、名無しさんの涙と鼻水を袖で拭う。
 名無しさんにはそれが無性に嬉しく、先ほどまでとは違う涙が溢れる。
「ああ、もう……そんなに泣くな」
「……だって」
 ぐしゃぐしゃとした泣き顔で名無しさんは続ける。
「半助さん、いつ来たの」
「たった今だ」
 半助はやはり不機嫌そうに続ける。
「まったく……名無しさんがいなかったら、きり丸に何を言われることやら」
 名無しさんは息ができなくなるほどの痛みを胸に覚えた。
 ここまで追ってきたのは、きり丸の手前放っておけないだけだったのか。いや、口だけで、それだけではないはずだ。
 でも。
 思案を巡らせる名無しさんの手を半助が引いた。
「ほら、帰ろう」
 足を動かそうとしない彼女を振り返った半助が困り果てた顔を見せたので、名無しさんは思わず俯いて唇を噛みしめた。
 すかさず半助の声が降る。
「私が悪かった」
 冷たい空気に、凛と響いた。
 夫の謝罪におずおずと顔を上げた名無しさんの目に映った半助の表情は、戸惑ってはいるが真摯なものだった。
「つい読書に夢中になって……甘えてしまった。おまえなら、許してくれると思って……酷い態度を取ってすまなかった」
 名無しさんの胸の痛みは僅かに和らいだが、手を引かれるまま家路に就こうとは思えなかった。
「他にも……何か、怒っているのか?」
 半助がそう問いながら名無しさんを引き寄せると、名無しさんは彼から一歩分の距離を開けて足を止める。
 口を開くよりも先に涙が出た。
「私だって……構ってほしいです。特別なことなんて望んでないんだから、せめて……せめて返事する時くらいは顔を見てほしいです」
 昼間の怒りと、ずっと溜め込んでいた鬱憤が溢れ出る。自分はずっと、どす黒い感情にとらわれていたのだと言葉にして初めて気付いた。
 怒りのためか、はたまた羞恥のためか分からぬが、半助の手が冷たく感じるほどに体が熱を帯びた。
「留守中、すっごく寂しいんですよ。一人でいるの、怖いときだってあるんだから。休みになっても帰ってこなかったり……私がどんな気持ちでいると思ってるんですか。半助さん、何にも分かってないんだから!」
 半助は名無しさんの叫ぶような声にたじろいだようだった。
「すまん」
「すまん、じゃないですよ!」
 拳で半助の胸を強く叩いた。
 自分が力一杯叩いたところで、夫がびくともしないことを名無しさんは知っている。
「笑顔で『いってらっしゃい』って言うの、どれだけ努力してるか知らないでしょ。病気や怪我してないか、ずっとずっと心配して待ってるんですよ。そりゃ、心配してくれとも、待っててくれとも頼まれてないけど……」
 半助は何も答えない。考えあぐねる、といった様子で名無しさんを見つめている。
「もう、半助さんに私は必要ないですか?」
「名無しさん」
 半助は驚いたように見えた。
「半助さんに、お前なんかいらないって言われるのが怖いんです」
「そんなこと、言うわけないだろうが」
「言わなくても、態度が……」
 態度がそう告げているような気がすることがある。何気ないことでそう思ってしまう。考えすぎだ、気にし過ぎだ。そう自分に言い聞かせるようにしてきたが、会えない時間は不安ばかりを育てた。
 ここで帰りを待っていてもいいのだろうか。
 誰もいない、がらんとしたあの家で名無しさんは幾度となくそう思った。
「すまない」
 突然、息が止まるほどきつく抱きしめられる。半助の体にめり込んでしまうのではないかと思うほどだ。
「どう言えばいいだろうな……本当に、甘えていたんだ。名無しさんが待っていてくれるのが当たり前になっていたから……そんな風に考えているとは想像もしなかった。辛い思いをさせてすまない」
 半助の腕が緩んで、名無しさんは顔を上げた。
「私、必要ですか?」
 何度も涙を拭ったせいで少し熱を持った目尻を、半助の指がそっとなぞった。
「当たり前だろう。どこへも行かないでくれ……いてくれないと困る。名無しさん以上に欲しいものなんて、ないんだから」
 半助は困り顔で笑んだ。
「心配しながら、待っててくれ」
「それはそれで嫌です」
 二人は小さく笑った。
「名無しさんのいる家に帰りたいと、いつも思っているよ。ただどうしても……」
「分かってます」
 仕事が、と言おうとした半助の口を手で覆った。
 分かって一緒になった。蔑ろにされているわけでなければ、少しでも必要とされているなら、それでいい。
 半助は名無しさんの手を口からそっと外すと、彼の胸に当てる。
「おまえが私を待っていてくれる場所が、それがどこであっても、私の帰る場所だと思っている。ずっと手に入れたいと願っていたものだ」
 手の平に伝わる少し早い鼓動は、その言葉が嘘偽りのないものだと告げる。
 それでも、名無しさんは確かめたくなった。
「私も甘えていいですか?」
 半助は返事の代わりに微笑んで、名無しさんの指先に柔らかく口付けた。

 半助に背負われて眺める景色は、見知らぬ場所のようだった。とはいえ辺りは暗く、景色らしい景色は見えないのだが。
「私、イナゴ捕りうまくなったんですよ」
「きり丸に聞いた。まあ、あの大量のイナゴを見れば聞かなくとも分かるが」
 名無しさんは満足そうに笑う。こうして話をするのは夏休み以来かもしれない。秋休みも3人ともバイトと内職に追われていたのだ。
「繕い物も前より早くなったんですよ」
「見てたよ」
「でも……まだ、半助さんの方が上手いですよね」
 名無しさんは苦笑いする夫の広い背に身を寄せて、目の前で揺れる手入れの悪い髪を指先で摘んだ。
 そういえば半助は珍しく烏帽子を被っていない。
 半助の髪を弄んでいると、少しだけ憎たらしい気持ちが甦った。
 髪を強く引いてみる。
「痛い、痛い。名無しさん、何するんだ」
「ぼさぼさだな、と思って」
「今更……」
 名無しさんはくすくすと笑って半助の首筋に顔を埋める。目を閉じてゆっくりと空気を吸い込むと、冬の夜と半助の匂いがした。
 その物寂しい香りと、名無しさんの不安がゆっくりと融けて混じると、胸のどこか奥の方に、すとん、と落ち着いた。
 もう大丈夫。
 半助の歩調も、重なる互いの温もりも、そう言っているような気がした。
「明日、出かけようか」
 半助の声が直接、名無しさんの体に響いた。
 ううん、と返事をしながら名無しさんは顔を上げる。
「いい。家でゆっくりしたい」
「でも……」
「いいの」
「そうか」
 納得したとも、問いともつかない口調で半助は言った。
「歩き疲れたし」
「それもそうだな」
 と言って、半助はおかしそうに笑う。
「ねえ、半助さん」
「ん?」
 名無しさんは言葉になるはずだった息を静かに吐いた。あと一呼吸分の勇気が足りなかった。
 どうした、と半助は優しく訊く。
 今度こそ、と深呼吸を一つして名無しさんは言葉を吐いた。
「また、今日みたいなことがあっても……追いかけてきてくれる?」
「ああ」
 当然だというような何気ない声音が、じんわりと沁みた。
 ふふふ、と白い息で喜びを描きながら、名無しさんは空を見上げた。
 澄んだ空にはきらきらと星が輝いている。月も明るい。
「次はどこまで逃げようかな」
「逃げられると思ってるのか?」
 呆れたように、それでもどこか照れたような口調で半助は言った。

 町が見えてきた。
 行きの半分の時間で家に着くのではないだろうか。
 自分を背負って、よくこの速さで歩けるものだ。名無しさんは夫の体力に感心した。どこの男もこんなものだろうか。 いや、きっと半助は特別だ。そんなことを考えていると思わず笑い声がもれた。
「そういえば」
 半助の妙に改まった声に、名無しさんは背筋を伸ばした。
 何の話だろう。
「転んだ時にできた傷は平気なのか?」
「少し擦りむいただけです。ほら」
 手首の傷が半助に見えるよう腕を差し出した。
「そうか」
 安堵したように半助は言った。
 貰い湯に行かなきゃならんな、と夫が呟くのを聞きながら、名無しさんは首を傾げた。
「あれ? 何で……」
 どうして半助は自分が転んだことを知っているのだろう。
 不思議に思った名無しさんが身を乗り出して半助を見ると、彼はばつの悪そうな表情を浮かべていた。
「すぐに追いかけて来てくれたんですか? もしかして半助さん……ずっと、黙ってついてきてたの?」
 そうだ、とは言わない代わりに、月明かりが照らす半助の頬には朱が差していた。
 とぼとぼと自分の後をついて歩く半助を思い浮かべて名無しさんは笑った。
 どこに隠れていたのだろう。
 一体、どんな顔をしていたのだろうか。