そろそろ、小豆を火から下ろしてもいい頃だろう。
土井家の台所で、名無しさんは鍋の中を覗き込んだ。ふっくらとしてつやつやで、丁度よく煮えている。
美味しいぜんざいができそうだ。
名無しさんが顔を綻ばせると、表から声がした。
「ごめんくださーい」
「はーい」
名無しさんが戸口から覗くと、見知った顔がふたつ並んで彼女を仰いだ。
「乱太郎くん、しんべヱくん」
「名無しさんさん、あけましておめでとうございます」
「おめでとうございまぁす」
ふたりの元気な挨拶に名無しさんは思わず微笑む。
「あけましておめでとうございます。あれ? 新学期は明日からよね?」
首を傾げながら問うと、乱太郎がはにかんだ。
「はい、そうなんですけど、登校前に名無しさんさんにご挨拶したいなーと思って。ね、しんべヱ?」
「うん」
しんべヱが大きく頷いた。
「ありがとう。半助さんは買い物に行ってるけど、すぐ戻ってくると思うから……どうぞ、あがって」
はーい、と素直に返事をして、ふたりは家に入る。
「今、お茶を入れるからね」
そう言った名無しさんに、しんべヱが手に持っていた荷物を差し出した。
「これ、うちのパパが名無しさんさんにお渡しするようにって」
「しんべヱ、それ何?」
「ビスコイトなの」
「わぁ、嬉しい。ありがとう」
名無しさんは跳び上がらんばかりの勢いで喜んで、しんべヱから包みを受け取った。
以前、やはり同じようにしんべヱにビスコイトを貰って以来、ビスコイトは名無しさんの好物の一つになっているのだった。
名無しさんが鼻歌交じりにお茶を用意していると、足音が一つ中庭から近付いて、裏口をくぐった。
「名無しさんさーん。この餅、どこに置きましょうかぁ? あっ、乱太郎ッ、しんべヱッ!」
「きり丸」
「あっ、お餅」
という、しんべヱの声に、きり丸が悲しそうな表情を見せた。
「ど、どうしたの?」
乱太郎が心配そうに問う。
「……名無しさんさんが、新学期も勉強頑張るようにって、ぜんざい作ってくれるところだったんだ」
困惑顔の乱太郎としんべヱに向かって、名無しさんは声を張り上げる。
「乱太郎くん、しんべヱくん、大丈夫だから気にしないでっ! ご近所にお裾分けしようと思って沢山作ったから! 見て、大鍋でしょ!」
「は、はい……」
名無しさんの剣幕に、乱太郎としんべヱはひきつった笑みを浮かべた。
気にしないでね、と更に念を押しながらお茶を出し、土間に降りた名無しさんにきり丸が呼びかける。
「名無しさんさーん。これ、この後どうするんですか?」
きり丸が小豆の入った鍋を指している。
「ああ、それね。お砂糖とお水を足して、少し煮たらできあがり」
名無しさんは手早く砂糖と水を鍋に加えると、ちらり、と横を見た。きり丸が嬉しそうに鍋を覗いているのがとても微笑ましい。
「そっちに移そうか」
竈で煮ていたが、炭櫃に移してしまった方が勝手がいいだろう。
名無しさんが鍋を持ち上げようとするのを、きり丸が止めた。
「おれがやりますよ」
「ありがとう」
「きり丸、ぼくも手伝うよ」
「ぼくもー」
言いながら、乱太郎としんべヱも土間に降りてくる。
やっぱり男の子が家にいてくれると頼もしいな。
少し離れて少年達の背を見ながら、名無しさんはそう思う。
学期中はひとりきりなため、半助ときり丸が家に戻ると本当に心強い。アルバイトの手伝いで慌ただしくもあるが、寂しい毎日よりはずっとましだ。
けれども、明日からはまたひとりきり。
そう考えて沈んだ名無しさんの心を掬うように、明るい声がした。
「ごめんくださーい」
数人分の子供の声だ。きっと一年は組の生徒だろう。
名無しさんはにこやかな笑顔を作って戸口へ向かった。
暖簾を開けて外を窺うと、金吾、三治郎、兵太夫、喜三太が寒風の中にいた。
「あけましておめでとうございまーす」
声を揃えて挨拶する様子が、雛鳥のようで可愛らしい。
「あけましておめでとう。どうぞ、寒いから中に入って」
「おじゃましまーす」
余程寒かったのだろう、三治郎と兵太夫が家の中に駆け込んだ。
「名無しさんさん、ナメクジは好きですかー?」
入りしなの喜三太の無邪気な声に、名無しさんは困惑する。
「ナ、ナメクジはちょっと……あの……ご、ごめんね」
しょんぼりと肩を落とす喜三太に謝って、その後ろにいる金吾に誤魔化すように声をかけた。
「えっと……金吾くん、戸部先生は後からいらっしゃるの?」
「いえ、先に学園に向かわれました」
「そうなんだ。今ね、ぜんざい作ってたとこなのよ」
喜ぶ子供たちの向こうで、きり丸が鍋に水を入れようとしているのが見えて、名無しさんは慌ててそれを止める。
「待って、きりちゃんっ! ぜんざいにお水足さないで、雑炊じゃないんだからっ! 沢山あるから! 絶対に足りるからっ!」
きり丸のどケチにも困ったものだ。
溜息を吐きながら鍋をかき混ぜる名無しさんの周りで、子供たちがわいわいと騒いでいる。
この調子だと、は組の生徒が全員揃うかもしれない。
ありったけの材料で、ぜんざいを作ることにしておいてよかった。
「ごめんくださーい」
またも数人分の子供の声。
「きりちゃん、代わりに出てちょうだい」
ください、ちょうだい、どちらもどケチには堪える言葉らしく、きり丸はぐんにゃりと脱力している。
「ほらほら、きり丸」
乱太郎に促され、きり丸はへろへろと戸口へ向かう。
案の定、表にいたのは一年は組の生徒だったようだ。
「庄左ヱ門、団蔵、虎若、伊助。入れよ」
冷たい空気と共に、ぞろぞろと子供たちが入ってくる。
「あけましておめでとうございまーす」
「おじゃまします。あれ、土井先生は?」
庄左ヱ門の問いに、きり丸が答える。
「買い物に行ってる」
「みんな、寒かったでしょ。お茶をどうぞ……ぜんざいもすぐにできるからね」
どうしよう。半助さん、早く帰ってこないかな。
名無しさんは笑顔で子供たちを迎え入れながらも、内心では戸惑っていた。
狭い家の中に子供が11人。お茶を飲んでビスコイトをかじりながら、休み中の出来事や宿題について楽しそうに喋っている。今はまだ静かなほうだが、騒ぎ始めたら名無しさんの手には負えそうにない。
ぜんざいの鍋を子供たちに任せて、名無しさんは土間に降りた。竈の脇にいるきり丸に声を掛ける。
「一年は組が全員そろったね」
「そうっすね」
浮かない声を不思議に思い、きり丸の手元に目をやると、彼は餅を包丁で細かく切っていた。
さっきから黙々と何をしているのかと思ったら。
驚きすぎてむせそうになりながらも、名無しさんはきり丸を止める。
「きりちゃんっ、ストップ、ストップ!」
名無しさんの声に、子供たちが歓談をやめてふたりを見る気配がした。
我が家の恥曝し。という言葉が名無しさんの頭に浮かんだが、は組のよい子たちはこんな光景にはきっと慣れっこだろう。
「こっちに大家さんに頂いたお餅もあるからっ! お餅を小豆サイズにしないでっ」
ぼくたち来ない方がよかったかな、お邪魔しちゃったね、などと、ひそひそ声が聞こえてくる。やっぱり先生のお給料少ないのかな、なんてものも混じっている。
「いっぱいあるから大丈夫! ほら! ね?」
名無しさんは家の中にいる全員に見えるように餅を掲げた。
「みんな、気を遣わなくていいからね!」
新年早々、自分は何をしているのだろうか。名無しさんは情けなく思って、こっそりと溜息を吐いた。
しかし、こんなことで生徒に貧乏だと思われてしまっては、半助の沽券に関わるのではなかろうか、と考えたのだった。
頂きものの餅だという時点でどうにも貧しさが漂う気もするが、は組の生徒たちはそんなことを気にする風もなく談笑に戻っている。
「そろそろ、お餅を焼こうか」
わあい、と声があがった。
甘い匂いが立ちこめる家の中で、子供たちは嬉しそうにぜんざいを頬張っている。 それを見ているだけで名無しさんは笑顔になってしまう。
「みんな、泊まっていくでしょ?」
はい、と威勢よく返事が返ってくる中で、きり丸だけが嫌そうな顔で舌打ちをした。
「ってことは夕飯もか」
「きりちゃん。この間、大家さんにお米も頂いたじゃない」
名無しさんはきり丸をたしなめてから、皆に笑顔を向ける。
「お米もぜんざいも沢山あるから、遠慮しないでいっぱい食べてね。しんべヱくん、ぜんざいおかわりする?」
「いただきまーす」「お餅やお米をくださるなんて、大家さん優しいんですね」
乱太郎が感心したように言い、名無しさんはしんべヱの椀にぜんざいを注ぎながら答える。
「うん。大家さんにはとってもよくしていただいてるの」
「なんてったって、旦那がほとんど留守だからなー同情だよ、同情」
きり丸の言葉に間髪入れず、半助の声がした。
「悪かったなぁ、酷い旦那で」
「うわっ、土井先生」
「半助さん、おかえりなさい」
すかさず、は組の生徒たちが揃えて口を開いた。
「あけましておめでとうございまーす」
「おお、あけましておめでとう……ってクラス全員揃ってるのか。何があったんだ?」
合唱のような挨拶にたじろぐ半助を見て、名無しさんはくすくすと笑いながら土間に降り、半助から荷物を受け取った。
「何がって、挨拶にきてくれたのよ」
「そうか……しかし、狭いな」
名無しさんは改めて家の中を見回し、そのせせこましさに苦笑した。元々そう広くもない家に13人もいるのだから当然だ。
「半助さん、ぜんざい召し上がるでしょう?」
「ああ……だが、その前に魚を買い足しに行ってくる」
名無しさんは手に持っていた椀を半助に半ば無理矢理に押しつけた。
「名無しさん?」
「私が行ってきます。半助さんはぜんざいを食べて温まってて」
有無を言わせず、名無しさんは小走りに家を出た。
半助は呆気にとられたまま、上がり口に腰を下ろす。
「先生、お注ぎしましょうか?」
庄左ヱ門の申し出に、半助は首を横に振る。
「いや、まだいい」
半助はは組の生徒ひとりひとりに目をやった。愉快そうにぺちゃくちゃと喋りながら、ぜんざいを食べている。
しんべヱは休みの間にまた太ったようだが、それを除けば全員元気そうで何よりだ。
「うまいか?」
おいしいです! と子供たちが口々に言うのを聞いて、半助は満足そうに笑った。
「おまえたち、近所迷惑になるから騒がしくするんじゃないぞ」
隣のおばちゃんに怒られないようにな、と付け足して立ち上がった半助に、きり丸が声を掛けた。
「先生、どこ行くんっすか?」
「ああ……いや、ちょっと」
言葉を濁しながら、子供たちに背を向けて歩き出す。
「名無しさんだけじゃ魚を持つの大変だろうから、様子を見てくる」
そう言い終えると同時に、半助は暖簾をくぐった。
半助が十分に家から遠ざかった頃合いを見計らって、子供たちは先の注意などなかったかのように騒ぎだす。
「うひゃー、土井先生ってば」
「名無しさんさんを追いかけて行っちゃった」
「ラブラブだねっ」
「そりゃあ、まだ新婚だもの」
「きゃー」
「ねぇねぇ、ぜんざい、おいしいね」
「名無しさんさん、お料理上手だよねぇ」
「土井先生ってば、幸せ者だねー」
「お嫁さんもらえてよかったよね」
「みんな、静かにしないと!」
「庄ちゃんってば、あいかわらず冷静ねっ」
きり丸はそう言うと、椀を床に置いた。
きり丸の呆れたような溜息が部屋に響いて、皆が神妙な顔をする。
「どうしたの、きり丸」
乱太郎の問いに、きり丸は拗ねたような顔をした。
「明日から新学期なんだから、みんなもっと気を遣ってくれよなー」
しんべヱがおろおろと口元に手をやった。
「えっ、どういうこと?」
「気を遣うって」
と、兵太夫が言い、三治郎が続ける。
「ぼくたち何かした?」
「はにゃ?」
喜三太が首を傾げたところで、庄左ヱ門が勢いよく立ち上がった。
「そうか! 新学期が始まると土井先生と名無しさんさんは会えなくなってしまうから、夫婦水入らずの時間を作ってあげなきゃいけなかったんだ!」
きり丸が頷く。
「そう、そういうことなんだよー」
うーむ、と子供たちは考え込む態で俯いた。
「ってことは、きり丸も苦労してるんだねぇ」
伊助が関心したように言う。
「確かに、そう考えるとけっこう気を遣うよな」
という虎若の声に紛れて、金吾が小さく呟いた。
「戸部先生にはお嫁さんがいなくてよかった」
きり丸が頭の後ろで手を組んで、天井を仰いだ。
「まあ……でも、おれはアルバイトで家にいないことも多いから」
うんうん、と皆が頷く。
「その間に、ふたりには内職をやってもらうとさ、なかなかいい稼ぎになるんだぜー」
「おまえなぁ……」
乱太郎が呆れて言った。
家で繰り広げられている会話など想像もせず、名無しさんは市場へ向かっていた。
冷たい風に煽られて、自然と早足になる。
「名無しさん」
呼ばれて振り向くと、半助が走ってくるのが見えた。名無しさんは立ち止まって夫を待つ。
「どうしたの?」
「ひとりじゃ大変だろうから」
「ありがとう」
半助は名無しさんの隣に立つと、困り顔で笑った。
「こちらこそ」
そう呟くように言うと、半助は彼女の背に手をやって歩くよう促す。
「ぜんざい、食べました?」
「まだだ。名無しさんは食べたのか?」
見上げる名無しさんと、見下ろす半助。ふたりの白い息が混ざり合う。
「私もまだ……この寒さだと、きっとすごーく、おいしいですね」
「名無しさんの作るものは、いつだっておいしいよ」
ふふ、と朗笑したと思うとすぐに、名無しさんは心配そうに言葉を落とす。
「ねぇ、子供たち……ぜんざい食べちゃたけど、夕ごはん食べられるでしょうか? あ、育ち盛りだから余裕かな」
ひとり納得して首を縦に振る名無しさんに、半助は申し訳なさそうに眉を下げた。
「悪いな……明日から暫く家を空けるというのに、騒々しくて」
「別に構わないですよ、楽しいし」
「そうか?」
信じられない、という風に半助が言うので、名無しさんはおかしくなった。
「その代わり」
名無しさんが半助の手を取った。
「春休み、できるだけ早く帰ってきてくださいね」
「うーん」
眉間に皺を寄せた半助の横顔を見つめる。
「頑張って授業進めてくださいね、土井先生」
「……はい」
妻に「先生」と呼ばれて、半助は照れくさそうに笑った。
「しかし、肝心のあいつらがなぁ……」
情けない声を聞きながら、名無しさんは長い指に自分の指を絡めた。外にいる時間は彼の方が勝るはずなのに、名無しさんの手よりもずっと温かい。
明日から暫くは、こうして手を繋ぐこともできない。
寂しさを打ち消すように、名無しさんは明るく顔を上げた。
「急いでお魚買って、帰りましょ。ぜんざいなくなっちゃう」
「ああ」
半助は返事をするやいなや、名無しさんを抱き上げて走り出す。
名無しさんは慌てて半助の首に手を回した。
「な、何するんですか。半助さんっ!」
「急ぐと言ったじゃないか。この方が早いだろう。しっかり掴まってないと落ちるぞ」
くつくつ、と半助が笑い、からかわれているのだと分かる。
「恥ずかしいから降ろして」
「誰も見てないさ」
確かに、周りを見渡しても誰もいないが、いつどこから誰が現れるとも分からない。
絶対に誰にも見られないというならこれでもいいが。いや、よくないだろう。
「半助さん!」
名無しさんの抗議に、半助はただ笑うだけだった。
「ねぇ、どうする?」
弱りきった様子の乱太郎が、クラスメイトに問いかけた。
「うーん、さすがにこれに水を足すわけにもいかないしなぁ」
きり丸がのぞき込む鍋の中には、かろうじて一杯分のぜんざいが残っているだけだった。
「しんべヱってば、食べ過ぎだよ」
喜三太にそう言われて、しんべヱはひたすら眉を下げる。
「だって、おいしかったんだもの」
下を向いて考え込んでいた団蔵が、ぱっと顔を上げた。
「大家さんから小豆を貰ってこよう!」
うーん、と残りの10人が静かに唸る。
「貰えたとしてもなぁ」
虎若の困惑しきった声に続けて、庄左ヱ門が冷静に言う。
「どう頑張っても、先生方が帰ってくるまでにはできあがらないよ」
「大家さんの家に、ぜんざい……ないかな?」
腕組みしながら問う伊助に、金吾が即答した。
「ないと思う」
「お餅は、まだ沢山あるんだよねぇ」
三治郎が手に取った餅を、その場にいる全員が困り顔で見つめた。
「あっ! ぼく、いいこと考えた!」
不意に、兵太夫が手を打った。
は組のよい子たちは頭を寄せ合って、ひそひそと作戦会議を始めた。
かくして、椀の底に餅が敷き詰められたぜんざいが、半助と名無しさんを待っているのだった。