まったく

「あっ……だめっ……半助さんっ、そんな風にしないで」
 息を荒らげた名無しさんが半助の手を掴んだ。
「名無しさん」
 半助は耳まで紅潮させた妻の顔を見据える。
「すまん……久々なものだから、つい」
「だからってこんな……酷い……」
 名無しさんは半助の手から造花を勢いよくひったくった。
「半助さん、こんなんじゃお金もらえませんよ!」
 名無しさんの言葉に半助は考え込んだ。最近、名無しさんはきり丸に似てきた気がする。
 これではどケチがふたりになってしまう。
「ただいまー! 名無しさんさん、大根買ってきましたよー」
 おかえり、と半助と名無しさんは声を揃えて言った。
「きりちゃん、ごめんね。私だけ先に帰ってきちゃって」
「いいっすよ、寒いですから」
「また買い忘れか?」
 からかうように言うと、名無しさんは半助を小突いた。
 きり丸が上がり口に荷物を置くと、すかさず名無しさんが手招きした。
「きりちゃん」
「どうしたんすか?」
「見て。これ、半助さんが作ったの」
 さも不出来だという風に名無しさんが言うのを聞きながら、半助は居住まいを正した。
 そこまで酷くはないだろう。今までだって幾度となく作ってきたのだから、そう簡単に腕が落ちるはずはない。きり丸には違いが分かるに決まっている。そう、名無しさんの審美眼は今一つなのだろう。
 半助はひとり静かに頷いて、きり丸の言葉を待った。
「うわー。土井先生、造花作るのヘタになりましたねー」
 きり丸はしみじみとした口調で言うと、造花を掲げた。
「なっ、何だって」
「あーあ……先生、これじゃあ、やり直しっすよ」
 予想外れの言葉と呆れた様子に、半助は気分を害した。
「うるさい! ふたりとも買い物から帰る早々、駄目出しか」
「いやぁ……でも、これはちょっと。ねぇ、名無しさんさん?」
 名無しさんは同意するように何度も頷く。当然ながら、それも半助には不愉快だった。
「誰の内職だ、誰のっ! 手伝ってやろうと思ったのに、まったく」
 へへへー、ときり丸が誤魔化すように笑うと、名無しさんが続いて威勢良く言った。
「私の内職でもあるんですよ。毎日作ってると早く綺麗に作れるようになるんです」
「名無しさんさんは、もうプロ並みですよ!」
 得意げな名無しさんにきり丸は尊敬の眼差しを向けている。
 なんじゃそりゃ、と口の中で呟いてから、半助は名無しさんに向かって不満を洩らした。
「妻が内職ばかりしていたら、私が甲斐性なしのようじゃないか」
 ぽかん、とする名無しさんの隣で、肯定するようにきり丸が笑った。半助は拳骨を落とす。
「お前は内職より宿題をやらんか!」
「へーい」

 そんなやりとりをしている間に、名無しさんは土間に降りていた。どうやら夕飯の準備を始めるようだ。
 半助は造花の山を眺めて大きく溜息を吐く。
 日頃から名無しさんを見ている隣のおばちゃんや大家さんには、内職をさせていることをどう思われているやら。
 名無しさんと一緒になってからは家のことは勿論、ドブそうじや町内の付き合いも彼女に任せきりだ。半助は殆ど家を留守にしているうえに、家にいるならいるで生徒や妙な客がやってくる。ろくでもない男によく嫁いだものだ、と思われていることだろう。
 あたらずといえども遠からず。
 頭と胃が痛くなってきた。半助は頭を振って、考えるのをやめようとした。
 だが、疑問が一つ頭に浮かんでしまった。
 果たして、金は足りているのだろうか。
 名無しさんがきり丸のアルバイトを手伝っている光景は、当たり前になっていた。彼女が生活費の足しに内職をしているのではないか、と疑ったことなど、今の今までなかった。しかし、手伝い以外で内職をする理由など、渡している金では足りないという他にないではないか。
 名無しさんと家の様子を見るに、浪費しているわけではないだろう。服装も特に変わらず、物も増えてはいない。むしろ節約ばかりしているのが窺える。
 金はどの程度足りていないのだろうか。名無しさんが外に働きに行くほどではないのだろうか。いや、自分の留守中には必死で働いているのかもしれない。
 いやいや、まさか。それなら隣のおばちゃんや大家さんに非難されるはずだ。
 しかし、プロ並みの造花作りの腕。相当数をこなしているに違いない。
 半助の額を妙な汗が流れる。
 ひきつった笑いを浮かべる半助の顔を、名無しさんがのぞき込んだ。
「半助さん、どうかした? ……具合でも悪いの?」
「いいや」
 半助は勢いよく答え、立ち上がった。
「手伝おうか?」
 名無しさんは不思議そうな表情を半助に向けたが、すぐに笑顔になった。
「ありがとう。でも大丈夫。今日は雑炊を作るだけだから。読書でもしてて」
「そうか……」
 半助はそわそわと、上がり口に腰を下ろした。
「どうしたの?」
 半助は名無しさんを見ずに、膝に置いた手を見ていた。
 どうやって切り出そうかと考えてはみるが、上手い言葉は少しも思い浮かばない。だが、手の甲ばかり見つめても答えが書いてあるわけでもない。
 半助さん、と名無しさんに呼びかけられると同時に、ぼそり、と口を開いた。
「足りないか?」
「え?」
 不機嫌そうな自分の声に名無しさんが戸惑っているのが分かったが、取り繕うことはしないまま、半助は彼女のすぐ前に立った。
 そして、至極小さな声で言う。
「生活費……足りてないのか?」
 名無しさんはきょとんとした表情で半助を見上げたが、すぐに合点がいったように目を見開いた。彼女は慌てた様子で手を左右に振る。
「ちっ……違うの。お金が足りないわけじゃなくて……えーっと」
 苦笑いして言葉を濁す妻を半助は訝しんだ。本当は足りていないのではないだろうか。それとも別の隠し事だろうか。
「なんだ?」
 名無しさんは半助の問いに、うーん、と唸って指を組んだり開いたりしている。そうやって暫く、言いたくなさそうな様子でいたが、いかにも渋々といった風に口を開く。
「ひとりで家にいると暇で……手を動かしてると、余計な考え事をしなくてすむし……寂しくないし」
 そっと唇を噛む名無しさんを見て、半助は胸が痛くなった。
「名無しさん……」
「そのうえお金が貯まるんだから、お得!」
 名無しさんは人差し指を立て、ひときわ明るい声で言った。
 そして、呆気にとられる半助に向かって首を傾げる。
「……でしょ?」
 自信の無さそうな声に、半助は微苦笑した。
 直後、半助は名無しさんの手を取って、くるり、と彼女の体を回した。そのまま引き寄せて、名無しさんを背中から抱きしめる。
「頼もしいな、名無しさんは」
 謝罪の代わりにそう呟いた。
 頼もしいと思うのも本当だったが、申し訳なさが勝る。しかし、それに勝るのは愛おしさだった。
 「ごめん」とも「ありがとう」とも言えず、愛だの恋だのそんな類の言葉も口から出せず、ただ黙って名無しさんに回した腕に力を込めた。
 ふふ、と妻は全て分かっているかのように、半助の腕の中で微笑んだ。
「何か、欲しいものはあるか?」
「特にないです。機嫌を取ろうったって、だめですよ」
「そんなつもりはないが」
 名無しさんはくすくすと笑って半助の肩に頭を預けた。半助は心地よい重さを愛しく思いながら、名無しさんの髪に鼻先を埋める。
 名無しさんは、どうしたら喜んでくれるだろう。
 懐の寂しさよりも、名無しさんの寂しさを埋めることの方が半助には随分と難しく思えた。
 日々、共にいることは適わない。ならば、やはり贈り物がいいだろうか。
 それなら小袖を買おう。いや、いっそ自分で縫う方が手っ取り早いだろう。伊助に頼んで唐木綿を都合してもらい学期中に縫えば、次に帰る時には渡せるだろう。
 それで彼女の喜ぶ顔が見られるだろうか。
 毎日家に帰ってくることができるなら、もっと名無しさんの喜ぶ顔も見られるだろうに。きっと喧嘩も増えるだろうが。
 半助は静かに笑いながら、名無しさんの顎に手を添えて横を向かせた。
「名無しさん」
 彼女の名を呼びながら、覆い被さるようにして、そっと唇を寄せる。

「土井せんせー、生徒の前ですよー」
 きり丸の声に慌てた名無しさんが、半助を力一杯突き飛ばした。
「夕飯作らなきゃ! 雑炊、雑炊っ」
 名無しさんは不自然なまでに明るく言いながら、何をしに行くのか分からないが小走りに中庭へ出ていく。
 半助は上がり口をかけ上がり、きり丸の手元をのぞき込む。
「きり丸っ! 宿題は終わったのかっ」
「もう少しでーすっ」
 きり丸は調子よく答えた。
 半助はやれやれと呟いて、腰を下ろした。頬がまだ少し熱い。
 いつの間にか戻ってきた名無しさんと目が合って、互いに小さく肩を竦めた。「きりちゃん、宿題が終わったら夕ごはんにしようね」
「はーい」
 宿題が終わったら。一体いつになったら夕飯が食べられるのだろうか。と、考えながら名無しさんが野菜を切る音を聞く。
 すぐ側にいる名無しさんときり丸の後ろ姿それぞれに目をやって、これが当たり前の光景だということに半助は嬉しくなった。
 こうしてたまに帰ってくるからこそ、一緒にいるありがたみが分かるのだろうか。もしそうならば皮肉なものだ。だが、嫌になるほど毎日一緒に過ごせる日も、そのうちに来るだろう。
「名無しさん。何か、手伝おうか?」
「雑炊だから、何もすることないですよ。これ切ったら終わりだもの」
 手持ち無沙汰だが、本を読む気はしない。
 そうだ。
 半助が作りかけの造花に手を伸ばすと、名無しさんときり丸が同時に半助に顔を向けた。交互に目をやると、そのどちらもが首を横に振っている。
 やめろ、ということか。
 半助がすごすごと造花から手を離すと、ふたりは安心したように各々の作業に戻った。
「まったく」
 半助はぼやいたが、すぐに困り顔で微笑んだ。
 まったく、こんなに幸せでいいのだろうか。