「帰ってこないものだと思ってました。あったんですね、春休み」
おかえりなさい、の次に名無しさんが半助に言った言葉だった。
それからろくに会話もしないまま、半助から着物を引っ剥がして古着を押しつけ、着物が破けそうな勢いで洗濯をしている。
本当は半助ときり丸にそれぞれ新しい着物を用意したかったのだが、毎日内職をしていても思ったようには金は貯まらなかった。
「せんせー、名無しさんさん、めちゃくちゃ怒ってますよ」
「分かってる」
「補習で遅くなったからですよね」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「誰のせいって……土井先生が授業進めるの遅いからですよね?」
「おまえたちの補習や追試のせいだろーがっ!」
半助ときり丸がこそこそとこちらを窺っているのが分かって、名無しさんは洗濯をする手つきをわざと荒々しくする。本来なら自分に見つからないように覗き見することなど簡単にできるだろうに、と思うと余計に苛々した。
着物が本当に破れてしまわないように気を付けながら、水気を絞って干す。
「よし。天気もいいし、すぐに乾くでしょ」
ちらり、と戸口に目をやると、ふたりはもう顔を引っ込めていた。
冷えた手を擦り合わせながら家に戻ると、すぐに半助に声を掛けられた。
「まだ怒ってるのか?」
「怒ってません」
と言いながらつい顔を背けてしまった。
「一応、帰ってきたじゃないか」
「明日には戻るんでしょ」
睨みつけると、半助は居心地悪そうに座り直した。
「新学期なんだから、仕方ないだろう」
そういう言い方をするのか、と名無しさんが食ってかかろうとすると、きり丸が慌てたように立ち上がった。
「アルバイトに行ってきまーす」
「いってらっしゃい。気を付けてね」
はーい、と明るく答えて出ていくきり丸は、いつもよりも大分早足だ。
きり丸を外まで見送って戻ると、いつの間にか半助は上がり口に腰掛けていた。
「名無しさん、何をそんなに怒っているんだ」
「よく分かりません」
「なんだそりゃ」
「分からないものは、分からないんです。お隣に行ってきます」
名無しさんは自分がどうして怒っているのか、本当によく分かっていなかった。
半助たちが帰らないことは覚悟していたし、実際にそうなった時のために学園へ届ける荷物も用意していた。一日だけでも戻らないだろうか、とそわそわして待っていたのだが、いざ顔を見たら憎たらしくて仕方がなくなってしまったのだった。
勿論、自分の心が狭いのは分かっている。
ようやく会えたのだから、限られた時間を共に過ごせばいいのに素直になれない。
何かきっかけになるようなことを、半助が言ってくれればいいのに。そうすれば半助を労って、甘えて、また笑顔で見送れる。
自分が欲しい言葉をくれないから、半助に怒っているのだろうか。相手に求めてばかりではいけないのに。
頭の片隅でそんなことを考えながら、名無しさんは隣のおばちゃんに町内清掃の日程を確認していた。
本当は隣のおばちゃんに訊かなくとも、町内清掃の日程はしっかり覚えている。単に半助から逃げてきたのだ。
恐らく半助にはお見通しだろう。そして、それにまた腹が立つのだった。
おばちゃんとの世間話が終わり、名無しさんは表に立っていた。
半助と顔を合わせ辛い。また暫く会えなくなるというのに、酷い喧嘩になってしまったらどうしよう。そう考えると家に入るのが躊躇われた。
しかし自分の家の前で佇んでいるのはなんともアホくさい。意を決して家に入った直後、きり丸の声がした。
「ただいまー」
おかえり、という声が半助と揃った。名無しさんは横目で半助を見やったが、彼はそれを気にした様子もなくきり丸に声を掛けた。
「随分と早かったな。終わったのか、アルバイト?」
「まさか! 今からキノコ谷で弁当売ってくるんですよー」
てっきり何か手伝わされるものと思い、ひやひやしていた名無しさんは意外な答えに首を傾げた。
「キノコ谷?」
「はい。キノコ谷は桜の名所でしょ」
と言って、きり丸はにこりと笑う。
「花見弁当か」「お花見弁当ね」
名無しさんと半助はほぼ同時に言った。
まったく、どうしてこういうときに限って声が揃うのだろうか。
「折角だから名無しさんさんも一緒に行きましょうよー」
「アルバイトに? お花見に?」
「花見っすよ」
どうしようかと迷っていたのだが、名無しさんは結局きり丸に引っ張られるようにしてキノコ谷への道を歩いていた。その後ろを半助が何も言わずについてくる。
半助を意識しながらも、名無しさんはきり丸が楽しそうに話すクラスメイトや委員会の話題に耳を傾けていた。
遠目で見るキノコ谷には浅紅の雲がかかっているようだった。
いざ近づいてみると、どの枝にも花が咲きこぼれている、大層見事な桜ばかりが並んでいた。
幔幕の張られた場所では宴会が催されているようで、賑やかな音が聞こえてくる。
自ずと名無しさんの心が浮き立ち始める。
向こうの方へ行ってみないか、ときり丸に声を掛けようとしたが、きり丸が先に口を開いた。
「じゃあ、弁当売ってきます」
「あ、そっか……きりちゃん、アルバイトだったね。頑張ってね」
はーい、と返事をしながらきり丸は花見客のいる方へと向かっていったが、突然足を止めると半助に呼びかけた。
「土井先生ー! 大変です! ちょっと来てください」
「なんだ?」
きり丸の棒読みの台詞と、それに苦笑しながら駆け寄る半助を名無しさんも苦笑しながら眺める。
ふたりは名無しさんに背を向けて、何やら話しを始めた。
「土井先生、ちゃんと仲直りしてくださいよ」
声を潜めているつもりなのだろうが、風向きのせいか名無しさんの耳にもしっかりと届いてしまっている。
「夏休みに戻ったら、名無しさんさん家にいないかもしれませんよ」
「縁起でもないことを言うな」
「分かんないでしょーが。今のうちに名無しさんさんとちゃんと仲直りしてくださいね! あ、この後は犬の散歩のアルバイトがあるんで、先生たちは先に帰っててくださいね」
じゃ、と手を挙げて、きり丸は人の多い方へと駆けていく。
「私、行くところなんてないんだけどなぁ……ああ、住み込みの仕事……」
ふたりの会話を聞きながら、なんとはなしに洩らした言葉だったのだが、半助には聞こえてしまっていたようで、彼はぎょっとした顔で名無しさんを見た。
とはいえ弁解するのも馬鹿らしく思え、名無しさんは半助が戻ってくるのを黙って待った。
「折角だから、少し歩こう」
頷いて、名無しさんは半助よりも先に歩き始めた。
満開の桜を風が時折揺らすと、花弁が舞い落ちてくる。
薄紅色の景色の中を黙って進んでいるうちに、桜も人もまばらになった。
周りに誰もいないことを確認してから、名無しさんは口を開いた。
「半助さん」
「なんだ?」
「……言い訳くらいしてください」
「言い訳?」
名無しさんの言葉に半助は戸惑っているようだった。
前を向いたまま、名無しさんは続ける。
「帰りが遅れたことの」
「言い訳にならないことばかりだよ」
「色々あるでしょ!」言って、半助を振り向く。「 倒れてる人を助けたら厄介ごとに巻き込まれたとか、学園長先生の思いつきのせいでテキストが進まないとか……私の看病をしたせいで、授業が遅れたとか」
「それだけ分かっているなら、今更言うことなんてないだろうが」
半助は苦笑しながら言う。
確かにそうかもしれないが、名無しさんは釈然としなかった。口を結ぶと再び前を向いて歩き出す。
花見には来られないだろうと思っていたので、こうして半助と一緒に桜の下を歩いているのは夢のようだった。だが、どうして自分たちは喧嘩をしているのだろう。
大好きなはずの彼の優しい口調も笑顔も、今は無性に腹が立つのだった。
自分の狭量さが嫌になる。
名無しさんは歩調を早めて、ずんずんと進んでいく。
「名無しさん、どこへ行くんだ」
半助の声に慌てて辺りを見回すと、人気がないどころか桜の木すらない。
「帰りが遅かったから怒っているのか? それとも何か別のことなのか?」
呆れと心配の入り交じったような声音で問われ、名無しさんはなんともいえない気持ちになった。
半助に腹を立てているのか、自分に憤っているのか分からない。
「名無しさん」
宥めるように呼ばれて、名無しさんは思わず走り出した。
「こら、名無しさん」
幾らも進まないうちに、半助が名無しさんの手首を掴んだ。
「返事くらいしろ。何のために口が付いてるんだ」
怒りもせず、それどころかにこやかに、そしてどこか冗談めいた口調で言った半助に、名無しさんは逆らいたくなった。
「べつに、半助さんと喋るためじゃありませんっ!」
と、半ば叫ぶように言う。
ふーん、と半助は静かに言った。
「そうか」
ふい、と名無しさんが顔を背けるより先に、半助の唇が彼女の唇を覆った。
名無しさんは驚きで目を見開いた。
突然の口付けから逃れようとしても、半助の大きな手で後頭部をしっかりと押さえられ、名無しさんの力ではびくともしない。
「んーっ……んっ、ん……」
顔を背けようとしたり、半助の胸を手で押し返そうとするも全くの無駄だった。びくともしないどころか、抵抗すればするほどに口付けは深くなるばかりで、いつの間にか名無しさんは半助にしがみついているのが精一杯になっていた。
それでもなんとか半助の二の腕に手を伸ばし、思い切りつねった。
半助が反射的に名無しさんから手を離した。
「……はっ、は、半助さんっ! 何するんですかっ!」
名無しさんは真っ赤になりながら口元を覆う。
「それはこっちの台詞だ……本気でつねっただろう」
「だってこんなところで」僅かに声を小さくする。「あんなことをするから!」
「私とは喋らんというから、口の他の使い方を教えただけだろう」
半助は意地悪く笑う。
「……半助さん、怒ってるんですか?」
名無しさんがおずおずと問うと、半助はいつもの優しい笑みを浮かべた。
「いじめたくなっただけだよ……まぁ、むっとはしたが」
「ごめんなさい」
半助は溜息を吐いて、名無しさんの手を取った。
そのまま、ふたり黙って先程と同じように桜並木から遠ざかるように歩く。
花見ではなくなってしまったが、名無しさんにとっては半助がいるだけで十分だった。
「あ、ここにも桜」
忘れ物のように、桜の木が一本だけ立っていた。名無しさんは半助の手を引いてその木に駆け寄る。
「もう散り始めているな」
「綺麗」
強い風が吹いて枝が揺れると、桜色の雪が降った。
「ああ、散っちゃう……勿体無いですね」
名無しさんが散っていく花に手を伸ばすと、花弁が一枚指先に乗った。
「ねぇ、半助さん。見て、つかまえた」
「たまたま乗っただけだろう」
ふうっ、と半助が名無しさんの指先の花弁を吹き飛ばす。
「あっ、何するんですか」
半助はくすくすと笑いながら、名無しさんの頬を包むように両手を添えた。
「捕まえた」
静かに言って、額に優しく口付ける。
「……どこにも、行かないで欲しいか?」
「え?」
半助は寄りかかるようにして名無しさんを抱きしめた。名無しさんはわけが分からないまま、半助の背にそっと手を添える。
「半助さん?」
半助は大きく息を吸った。
「辞めようか、仕事」
その言葉に驚いて半助の顔を見ようとするも、より一層強く抱きしめられてしまい、それは叶わなかった。
「そんなこと……できないでしょ」
「そう思うか?」
「うん」
辞めてほしいと思ったことなど一度もない。不満はあるが、それとこれとは別だった。
半助がそんなことを言い出したのは、自分のわがままのせいなのだ。そう考えて、名無しさんの気持ちは沈んでいく。
寂しくて構ってほしい気持ちを、もっと押さえるべきだった。子供ではないのだから、ほんの僅かでも半助の負担になるようなことはすべきではなかった。
一番、大事な人なのに。
ああ、どう伝えればいいのだろう。
「誰よりも、何よりも大切なはずのおまえに、どうして一番辛い思いをさせてしまうんだろうな」
独り言のようにそう言った半助を、名無しさんはぎゅっと抱きしめた。
「辛くなんかないです」
「説得力のない声だな」
言われて、名無しさんは自分が涙声になっていることに気付いた。ぐっ、と腹に力を込める。
「私は、半助さんがちゃんと帰ってきてくれるなら、半助さんがどこへ行っても平気です。……本当は平気じゃないけど……我慢できるって意味で……でも別に嫌ってわけじゃなくて、ただ……どうしても寂しくて。わがままばかりで、ごめんなさい」
いいんだ、と半助は柔らかく言った。
名無しさんは首を横に振る。
「私……半助さんの役に立ちたいのに、何もできないのがもどかしいの。もっといい奥さんでいたいのに……」
「名無しさんは十分すぎるほど、役に立ってくれているけどなぁ」
「家で待ってるだけだもの」
「だから、待っててくれているじゃないか」
半助は名無しさんから僅かに体を離すと、微笑みながら、彼女の頬を撫でた。
「そんなの……」
何の役にも立たないじゃない、とは続けさせずに、半助は静かに彼女に口付けた。
「私が、一番に望んでいることだよ」
甘い吐息の合間にそう言って、また唇を重ねた。
浅い口付けを何度も繰り返す。
名無しさんがうっとりと目を開けると、優しい笑顔と目が合った。
「そういえば」
はい、と小さく答えると、半助は名無しさんの手を取った。
「贈り物があるんだ。家に置いてある……本当は帰ってすぐに渡したかったんだが、名無しさんが怒っているからすっかりタイミングを失っていたんだ」
名無しさんは何故だか急に恥ずかしくなった。それを誤魔化すように、幾分かぶっきらぼうに問う。
「何ですか、贈り物って」
「まだ内緒だ」
半助は悪戯っぽく笑ったと思うと、すぐに真面目な顔つきになった。どこか寂しそうな夫のその表情に、名無しさんは焦りを感じた。
「半助さん」
背伸びをし、着物の襟を引いた。繋ぎ止めるように唇を重ねると、驚いたような暫しの間の後、半助からも口付けが返ってくる。
半助はゆっくりと口付けを深いものに変えながら、桜の幹に名無しさんをそっと押しつけた。
名無しさんは半助を掻き抱くように彼の背に手を回す。
会えなかった時間の分だけ、幾度も幾度も唇を重ねて互いを味わう。名無しさんの髪に差し入れられていた手が、ゆっくりと体を降りてくる。
木々の揺れる音が遠く聞こえた。
「……んっ」
名無しさんが思わず艶めいた声を洩らすと、半助は小さく笑って唇を離した。そして、「これで終わり」とでもいうように名無しさんの額に口付けた。
ほうっ、と息を吐きながら、名無しさんは半助の胸に凭れた。そして、乱れた息を整えながら半助の着物を、つい、と引いた。
「……もっと?」
からかうような声で囁かれ、名無しさんの頬がすっかり桜色に染まる。
「会いたかったよ」
半助はそう言って妻の頬を撫でると、こつん、と額を合わせた。
ああ、自分は言い訳ではなくこの言葉が聞きたかったのだ。名無しさんは自分が怒っていた理由をようやく理解したが、恥ずかしくて半助には到底伝えられそうにない。
木々を大きく揺らす程の強い風が吹いた。名無しさんが思わず目を閉じるのと殆ど同時に、半助は彼女を易々と抱き上げた。
「半助さん?」
「誰にも邪魔されない場所に行こう」
半助は唇で名無しさんの耳を掠めながら、密やかに言う。
名無しさんは顔を真っ赤にしながら、半助の肩に落ちた桜の花弁を指先でそっと摘んだ。指先を開くと、小さな春は優しい風に乗ってひらひらと飛んでいった。