キノコ谷での花見を終えて、半助とは共に家路についていた。
は不意に歩みを止め、手拭いで汗を拭った。春の麗らかな陽射しの下を歩いていると、暑いくらいだ。
「疲れたぁ」
その声に、半助が呆れ顔で振り向いた。
「だから、おぶってやると言っただろう」
「自分で歩けます」
ふい、とは半助から顔を背けた。
「まったく……喋りすぎで疲れたんだろう」
「違います。喧嘩のせいですっ! 喧嘩で疲れたの!」
どうだか、という表情で半助はを一瞥し、再び歩き出した。
は膨れながらも、すぐにその後を追う。
半助の言葉は当たっていた。
夫婦喧嘩の後、ふたりは花見の喧騒から離れた場所で話し込んでいたのだった。とはいえ、実際にはの独擅場で、あれもこれもと口を閉じる暇もなく喋り続けた結果、はすっかりくたびれていた。
しかし、認めるのは癪に障る。
「そもそも、誰のせいだと思ってるんですか」
だるそうに足を止めたの呟きに、半助が振り向いた。
「ああ、もう」
半助は厄介そうに言いながら、素早く彼女を抱き上げると肩に担いだ。そして、小さく悲鳴を上げた妻の様子を気にもとめず、歩みを進める。
「半助さんっ……何するんですかっ」
じたばたと動きながら、が抗議の声を上げた。
「疲れたというから手を貸してやっただけじゃないか」
半助はからかうように言う。
「歩けますっ」
「の歩くのに合わせていたら、家に着く頃にはきり丸が雑炊を作って待っているだろうなぁ」
きり丸はまだキノコ谷にいるはずだ。の歩くのが遅い、と半助は暗に言っているのだった。
腹を立てたにぽかぽかと叩れながら、半助はそれまでとは違う静かな声音で言った。
「どうして、そんなに家に帰りたくないんだ?」
その問いに、は思わず抵抗をやめた。
帰りたくない、と思っているのは本当だった。
家に帰れば、半助を送り出す支度をしなければならない。持たせる荷物を用意していると、夫がまた暫くの間戻らないことを痛感する。はそれが嫌なのだ。勿論、家に帰らずとも明日になれば、半助は学園へ戻ってしまうことは分かっているが。
は担がれたまま唇を堅く結び、過ぎていく地面を眺める。
「まさか」
半助の声には、はっ、と顔を上げた。
「町内の行事をすっぽかしたのか?」
「違います。半助さんと違って、皆勤賞ですから」
何故に半助は肝心なところでは鈍いのだろうか。
「じゃあ……家賃の払い忘れか?」
「きちんと払ってます! もうっ、あなたと一緒にしないで」
半助は足を止め、むくれるを肩からゆっくりと降ろした。
ふたりはまっすぐに向かい合う。
「何か困ったことがあるのか?」
が静かに首を横に振ると、心配そうだった半助の表情が笑顔に変わった。
「それなら、帰ろう」
半助に手を引かれ、は渋々歩き出す。
先ほどよりも早い歩調で進みながら、は半助の横顔を見上げていた。時折、繋いだ手に力を込めれば、半助は柔らかい笑みを向けてくれる。
それが余計に寂しさを募らせた。
半助に手を引かれるまま歩いてきただったが、家の前まで来ていることに気が付いて声を上げた。
「、どうした?」
「真っ直ぐ帰ってこないで、お魚買ってくればよかった……」
来た道を戻ろうとするの手を、半助は慌てて引く。
「きり丸もまだ戻らないし、急がなくてもいいだろう。私が行くから……ひとまず、家に入ろう」
半助の言葉に頷いて、戸口をくぐった。
が荷物を置くやいなや中庭へと向かおうとすると、半助が呼び止めた。
「?」
「洗濯物、取り込んできます」
「後でいいだろう。渡したい物が……」
「もう日が傾いてるじゃない。すぐだから」
苦笑する半助を残して中庭に出ると、辺りは薄暗くなり始めていた。中庭を囲む家々からは、夕飯の支度をしている様子が窺える。普段なら取り残されたような寂しさを覚えるだったが、今日は独りではない。
は微笑みながら、物干しから着物をおろした。
「ちょっと生乾きかなぁ」
眉間に皺を寄せながら家に入ったに、半助が手招きをした。
「何ですか?」
履き物を脱いであがると、彼の手元には風呂敷包みが見えた。
「あら……」
まだ洗うものがあったのだろうか。と考えて、の眉間の皺はより深くなる。
褌ならば二人分の替えをしっかり用意してあるが、それ以外の物ならばそうはいかない。怒りに任せて洗濯を始めたせいで、他にも汚れ物があるか尋ねるのをすっかり忘れていた。
「それ……」
急いで学園に届けますけど数日待ってくださいね、とが言うより先に、半助が口を開いた。
「これが贈り物なんだ」
はほっとした後、首を傾げた。洗濯物でないならば、中身は見当もつかない。
黙って半助の側に座ると、が抱えていた着物を彼の手が取り上げた。
「それ、まだ生乾きのような気がするんだけど」
「この程度なら大丈夫だろう。そのうち乾く」
ずぼらなんだから。心の中で呟いて、は風呂敷包みに再び目を落とす。
「……気に入るか分からないが、開けてみてくれ」
そう居心地悪そうに言う半助の言葉に頷きながら、は風呂敷を開いた。
まず目に飛び込んできたのは、の好きな色だった。そして、花の紋様。
だが、それが何かは分からず、は首を傾げた。
「広げてみたらどうだ」
痺れを切らした様子の半助の言葉に従ってみると、それは真新しい小袖なのだと分かった。
は半助と小袖を交互に見やる。
「もしかして……半助さんが縫ったの?」
そう答うと、半助は照れくさそうに頷いた。
いつの間に縫ったのだろう。授業や委員会活動で忙しいだろうに。ちゃんと睡眠時間は取れていたのだろうか。
は小袖を手に取りながら、自分の気持ちを誤魔化すようにそんなことを考えた。
そうしていないと、涙がこぼれてしまいそうだった。
「……綺麗」
この手触りは唐木綿だろう。
「反物の方がよかったか?」
「いいえ。嬉しいです……縫うの大変だったでしょう?」
曖昧に答える半助に向かって、は居住まいを正すと頭を下げた。
「半助さん、ありがとうございます」
半助が慌てて姿勢を正す気配を感じながら、はゆっくりと顔を上げた。
涙の粒が落ちないように気をつけながら、半助に笑顔を向けると彼からも笑みが返ってくる。
「こちらこそ、いつもありがとう。には本当に感謝している。それなのに」言いながら、半助はの手を取った。「寂しい思いをさせて……すまない」
は首を横に振る。
「家のことは任せてください。留守を守るのが私の役目だから……半助さんはお仕事に専念してください」
が夫の大きな手を握り返すと、半助は静かに頷いた。
「明日から、また頼む」
「はい」
本当は自分も着物を贈りたかったのに。はそう考えながら小袖を撫でた。
自分より遙かに忙しいであろう半助に先を越されてしまうとは思いもしなかった。は反物を買う資金すら未だ貯められていなかった。内職ではなかなか賄えない。
やはり古着を買うべきではなかった。しかし、洗濯をするにも替えの着物が無いというのは不便だ。家から一歩も出ないならば、乾くまでの間はの小袖を着せていても構わないが、なかなかそうもいかない。
よく考えると半助は学園では殆ど忍装束なのだろうから、学期中に自分で着物を洗ってくれればいいものを。忙しいのは分かるが、洗濯くらいできるのではないだろうか。
などと言ってしまえば台無しなので、はじっと口を噤む。
「」
突然呼ばれて、の肩が小さくはねる。
「はい?」
「小袖、着て見せてくれないか」
半助の言葉に頷いて、帯に手をかけただったが、半助がにこにこしながら自分を見ているのにはたと気付いた。
「な、何見てるんですか」
「えっ?」
「せめて、むこう向いててください」
暗くなってきたとはいえ、の言葉で半助の顔が赤くなったのが分かる程度だ。
「そ、そう言うこそ、私の目の前で着替えようとしていたじゃないか」
確かにそうだ。
は自分の頬が熱を持つのを感じながら、慌てて着物を掴むと奥の部屋へ入った。
「もうっ」
ちらり、と振り返ると、半助は律儀に台所の方を向いている。
「きりちゃん、遅いですね。もう暗いのに」
衣擦れの音が半助の耳に届かないように、は声を張り上げた。今更恥ずかしがるような仲ではないだろう、と言われれば確かにそうなのだが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「そうだな」
「まさか、明日学園に戻るのに、アルバイトを引き受けて帰ってきたりしませんよね?」
「分からん……きり丸のことだから、ないとは言いきれんな」
「そうだ、半助さん」
「どうした」
「お魚……」
「分かってる。着物を見たら、すぐに買いに行くから」
着物に袖を通すと心は浮き立ち、自然と笑みが浮かんだ。
新しい着物。それも半助が手ずから用意してくれたものだ。嬉しくてたまらない。
「小袖、皆に自慢してもいいですか?」
「恥ずかしいから勘弁してくれ。皆って誰のことだ?」
訝しがっているような半助の声に、は苦笑する。
「ご近所さんですよ。たまには夫婦仲のいいところを見せないと。半助さんが逃げたんじゃないのかと、ご近所さんや大家さんに心配されることがあるんだから」
「……私が縫ったとは言うなよ」
「はーい」
くすくす笑いながら返事をする。
新しい小袖は肌触りもよく、の体によく馴染む。
は丁寧な縫い目を指先でなぞりながら、小袖を縫う半助の姿を思い描こうとした。だが、忍術学園でのその顔は教師としてのものなのか、夫としてのものなのかさえ、想像がつかなかった。
それでも、離れていても平気なのだと小袖が教えてくれているような気がした。どちらにしろ、これを縫っている間の半助は、自分のことを想っていてくれたのだから。
「、もう……」
いいか、と問う半助の背中に、は抱きつくと、肩に顔を埋めた。
半助は驚く様子もなく、そのまま座っている。
「見えないんだが」
可笑しそうに言いながら、半助はの頭に自らの頭を凭れかけさせた。
「気に入ったか? ……悪くはないだろう?」
「大好き」
小袖か自分か、とは問わず、半助は自分の胴に回された妻の腕に、返事をするように手を添えた。
「ただいまー」
きり丸の声が響いた家の中には、飯の炊ける甘い匂いが漂っている。
「おかえりなさい。あれ、半助さんも一緒だったの?」
「ただいま。そこで一緒になったんだ」
「よかった、暗いから心配してたの」
は味噌汁の具材を鍋に放り込むと、前掛けで手を拭きながら土間へと下りた。すると、きり丸が何かに気付いたようにの顔を見上げた。
「きりちゃん、どうかした?」
「さん、その小袖とっても似合ってますよ」
「ありがとう」
ふふ、と小さく笑うから逃げるように、半助は部屋へと上がる。それを見たきり丸が、にやり、と笑った。
「それ縫ってるとき、土井先生ってば皆にからかわれてたんすよー」
「き、きり丸っ! 余計なことは言わんでいいっ!」
は怒鳴る半助を無視したまま、きり丸に顔を寄せると小声で問う。
「皆って、一年は組?」
「は組だけじゃなくて、学園中が知ってますよ」
きり丸によれば、半助が妻のために小袖を縫っているということが、一年は組の生徒の口からあっと言う間に学園中に広まり、半助は学期中ずっと冷やかされていたのだという。
小袖を縫う半助の姿が、僅かだが想像できそうだった。
「きり丸っ! こっちに来て魚を焼くのを手伝え」
「えーっ……魚なんて土井先生ひとりでも焼けるじゃないですか」
ふたりのやりとりに、はくすくすと笑う。
「アルバイトはどうだったの? お弁当売れた?」
「ばっちりっすよ! 売れないわけないでしょー」
「さすが天才アルバイター。ね、手を洗ったら、半助さんとお魚を焼いてくれる?」
「はーい」
きり丸の素直な返事に、半助がぼやく。
「の言うことなら素直にきくのか……まったく」
夫の情けない声音につられてそちらを向くと、目が合った。
困ったような笑顔に、は「大好き」と口の動きだけで言った。それだけでは伝わらないと思ったが半助には分かったようで、彼は照れくさそうに顔を伏せた。
「さすが忍者」
は小さく呟きながら、くるり、と後ろを向いて釜戸へ向かう。
ぱたぱた、と軽い足音が家の中を走った。
「せんせー、魚焼きましょう」
「こら、ちゃんと手を拭け」
背中で半助ときり丸の会話を聞きながら、は口元を綻ばせる。
ふたりに、どんな着物を用意しようか。夏休みまでに用意するのは少々厳しいかもしれない。けれど、冬休みにはきっと。
幸か不幸か、ふたりに隠れて準備をする時間は幾らでもある。どんな顔が見られるのかを考えると、ふたりが帰るまでの時間も、少しは穏やかな気持ちで過ごせそうだった。
釜の蓋を取ると、優しく甘い幸せな香りが立ち上り、家の中に満ちた。