勝敗

「土井先生っ、どいてどいてー」
 塀の上から降ってきた少女は、そのまま土井の上に落ちた。
「いたた……名無しさん、何をしてるんだっ」
 小春日和の午後の日差しの中を、土井は職員室に向かっているところだった。は組の授業の進み具合や、補習についてぼんやりと考えを巡らせていたせいか、名無しさんを受け止めることも避けることもできずに下敷きになってしまった。
そもそも、生徒が降ってこないだろうかと用心して歩いている者は滅多にいないだろうが。
「ごめんなさい。小松田さんを撒こうとしてて」
「なんだってそんなことを……」
 土井は呆れ顔で名無しさんを抱き起こすと、自分の衣から土を払う。
「くの一教室で耐久レースをしてるの。一位だと食堂のタダ券と紅がもらえるんだけど……」
「また、しょうもないことを」
 土井は力なく笑う。生徒たちはどうして、こうもくだらないことを次から次へと始めるのか。
 しかし、耐久レースとは一体何をするのだろうか。そう考えた途端、小松田の声が聞こえた。
「名無しさんさーん! どこですかぁ~」
 名無しさんは身構えると土井の手を取った。
「先生、早く」
「ええっ、何故私まで」
「乗りかかった船っ」
 土井は訳も分からず名無しさんに手を引かれて走る。
「どうして小松田くんに追われているんだ」
「外出届け無しに町まで出掛けて小松田さんに追われる! そして捕まるまでの時間が一番長い者が勝ち! ってルールなの」
「まさか、毎日やってるわけじゃないだろうな」
 何も知らずに生徒たちの遊びに付き合わされている小松田に同情する。彼自身はあまり気にしていないかもしれないが。
「まだ三日目」
 名無しさんはそう答えながら土井の手を離すと、生け垣を飛び越えた。
「危害を加えちゃいけないから、ひたすら逃げて隠れるんだけど結構難しいのよ」
 土井は自由になったが、そのまま彼女の後を追って走った。高く結われた彼女の髪がひらひらと舞うのを無心に見ていたが、不意に彼女が足を緩めたことに気付く。
 視線をずらすと焔硝蔵が見えた。
 そうか、ここを目指していたのか。土井が名無しさんを横目で見ると、それを待っていたように彼女は焔硝蔵の扉についた錠を指さした。
「土井先生! 早く!」
 開けるように催促され、渋々それに従う。
「よく鍵を持っているのが分かったな」
「さっき先生が出てくるのを見たの」
 なるほど、と呟く土井を名無しさんは焔硝蔵の中に押し込むと、開いたばかりの戸を閉じた。
 暗く、火薬の臭いがする中を名無しさんは土井の手を引いて進む。
「どう頑張っても、小松田くんには見つかるんじゃないかな」
「静かにして、先生」
 口を塞ごうとする名無しさんの手から避けそこねた勢いで、土井は彼女に押し倒される格好になった。
「こらこら」
 起きあがろうとする土井に跨って、名無しさんは両手で彼の口を塞ぐ。
 暗闇に目が慣れて、名無しさんの顔がよく見える。彼女は緊張した面持ちでじっと息を潜めて扉の方を向いていたが、段々と余裕を取り戻していくのが見て取れた。
 では、これは自分の鼓動か、と土井が動揺した瞬間、大きな音が響いた。
「名無しさんさんっ! 外出届けをっ!」
 開いた扉から光が射し込んだ。
 木の葉や泥をあちこちにつけた小松田は勢いよく焔硝蔵の中へ進んでくると、あからさまに驚きを見せた。
「ああっ! ど、土井先生が襲われてるっ!」
「こ、小松田くん。ち、違うんだこれは」
 名無しさんに跨られているという、とんでもない状態のままで土井は弁解を試みる。このことが学園内で知れ渡ってしまっては非常にまずい。
 しかし、小松田は土井を無視して名無しさんに怒ったように話しかけた。
「名無しさんさん! 外出届けをっ!」
「ちぇーっ……小松田さんてばしつこい」
「仕事ですからっ」
 名無しさんは自棄になりながら、小松田は淡々と事務的なやりとりを続ける。
 まるで床に横になったままの土井など、そこにいないかのような扱いだ。
 ふたりとも、どういう神経をしているのか。
 腹の上に名無しさんの重みと体温を感じながら、土井は呆れていた。
「名無しさんさん、次からはちゃんと規則通りにしてね。昨日も、くの一教室の子が無断で外に出ちゃって追いかけるの大変だったんだから。じゃ、ぼくはこれで」
 小松田が笑顔で焔硝蔵から出ていくと、ふたりは再び暗闇に包まれた。
「もうっ、先生のせいで負けちゃった」
 名無しさんが悔しそうに土井の胸を平手で叩いた。
「わ、私のせいか? 名無しさん一人で逃げればよかっただろう……それより、降りてくれないかな」
「困る?」
「困ってるよ……こんな人気(ひとけ)のない場所で」
「暗いしね。わたし、火種は持ってないけど……火はつけられるかも」
「な、何を言ってるんだ」
 土井に跨ったまま、胸の方へとにじり寄ってくる名無しさんが怪しく笑うのが見えた。
「試さなくていいっ、名無しさんの威力は十分把握してる」
 土井が体を起こそうとすると、名無しさんはそれを阻むように彼の胸に置いた手に体重をかけた。そしてそっと体を曲げて土井と唇を触れ合わせる。
「こら」
 土井が照れながらそう言うと、名無しさんはくすり、と笑って彼の上から降りた。
 やれやれ、と土井は立ち上がると懐に手を入れる。
 確か、持っていたはずだ。
「食堂のタダ券、何枚かあるから」
「くれるの?」
「ああ」
 名無しさんは土井を上目遣いで見ると、首を傾けた。
「それより、紅がいいな」
「周りに……怪しまれないか。目敏い子ばかりじゃないか」 言葉に詰まりながらそう返すと、名無しさんは小さく笑う。
「大丈夫。ちゃんと、私に似合いそうな色を買ってきてね」
「すぐにじゃないぞ、給料日の後だ」
「いいよ。待ってる」
 そう言うと、名無しさんは土井の首に腕を回して抱きついた。
 土井も応えるように名無しさんを抱きしめる。
 彼女はそれほど華奢には見えないが、抱きしめる度にその骨細な体に驚く。それでいて、男と女とではどうしてこうまで違うのかといつも不思議に思うほどに柔らかい。
 こんな風に二人きりで会うようになって半年が過ぎたが、まだ少し慣れない。
「会いたかった」
 名無しさんの甘い声に土井は困り顔で笑った。
「期末テストの準備で忙しかったからなぁ」
「まだ忙しいんでしょ……そうだ、いい薬をあげる。胃に効くやつ。わたしが調合したんだ」
 名無しさんが懐から取り出した薬を、土井は訝しげな顔で見た。既に二度ほど酷い目に遭っている。
「なに、その顔。怪しくないから! 飲んでよ」
「分かった、分かった」
 名無しさんは薬を土井の懐に無理矢理ねじ込むと、ぽんぽん、と満足気に彼の胸を軽く叩いた。
「じゃ、帰る。またね、先生」
「名無しさん」
 土井は名無しさんの腕を掴んで彼女を引き戻すと、軽く唇を重ねた。
 久々に会ったのだから、まだ帰したくない。だが言葉ではそう告げられず、その代わりに啄むような口付けを何度も繰り返す。
 暫くして、どちらからともなく唇を離した。
 土井は名無しさんと視線を合わせると、額を彼女の額に押しつけた。
 吐息の熱を感じる距離でそっと笑う。
「わざとだろう、私の上に降ってきたのは」
「当たり前でしょ」
「まったく……」
 土井は苦笑混じりにそう呟くと名無しさんの腰を引き寄せた。真っ直ぐに見つめてくる名無しさんの目は煽るように笑っている。
「ああいうことを、するもんじゃない」
 囁きながら、触れるか触れないかの口付けを繰り返す。
「こういうことは、いいの?」
 くすり、と名無しさんが笑ったのを合図に、土井は彼女から体を離した。

 突然に罪悪感で満たされる。
 自分は今、酷い顔をしているに違いない。土井が名無しさんから顔を背けようとすると、彼女は溜息を吐いた。それが少女ではなく、大人の女のそれのように感じられて、土井はどきりとした。
 名無しさんは彼の罪悪感を拭うように頬を一撫ですると、扉へと向かう。
 土井は黙って彼女の背中を眺めた。
 彼女はいつも、するりと入り込んできたかと思うと、同じようにして去っていく。土井には閉め出すことも、捕まえることもできない。
 そういう時に土井は彼女との10以上の年の差を忘れるのだった。むしろ彼女が年上に思えることさえある。
 射し込んだ光が土井を振り返る名無しさんを照らしたが、逆光でその表情はよく見えない。大人なのか、子供なのか、本当に名無しさんなのかも目では分からない。
「土井先生」
 少女の声がくすぐるように言う。
「忘れないでね、紅」
「ああ、分かってる」
 土井が返事をすると、名無しさんは軽い足取りでその場を去った。
 名無しさんはいつも別れを惜しむ風もなく、次の約束を巧みに取り付けて行ってしまう。そして約束がなくとも不意に土井の前に現れる。
「また、負けたな」
 そう呟きながら表に出ると、名無しさんが土井に残した熱を奪うように冷たい風が吹きつけた。