卒業式

 土井先生に手紙を渡そう。
 何ヶ月も前からそう決めていて、今日がその日。
 卒業式。

 長い式が終わったけれど、まだ何の実感も湧かない。
 でも、こうして学校の廊下を歩くのも最後だ。
 小中学校でと、卒業するということは既に経験しているけれど、不思議とその頃と同じ気持ちにはならない。
 変わらないのは、寂しいこと、少し不安なことと、今後への期待くらい。
 とはいえ進学先は地元の大学だし、今とほとんど変わらない、延長のような気がする。
 それでも、友達と一緒に帰るのも今日が最後。
 お弁当を食べたり、帰りに遊んだり、ちょっと喧嘩したり。今まで当たり前だったことが、明日からはもう当たり前じゃなくなる不思議。
 きっと一年後には、今の当たり前とは違うことが当たり前、そんな毎日になっているのだろう。
 だからその前に、やっておきたいことがある。
「名無しさん、もう帰る?」
「ごめん、ちょっと職員室行ってくる」
「ついて行こうか?」
「いいよ、大丈夫。すぐ戻ってくるから、もっと写真撮ってなよ」
 友達にそう言って、教室を出た。
 土井先生に手紙を渡すことは、友達にも言っていない。そもそも私が土井先生を好きなことを知る人はいない。
 先生が好きだなんて言い出しづらくて、秘密にしていた。
 廊下では、私と同じ卒業生達が写真を撮っていた。彼らの邪魔にならないように端に避け、階段へと向かう。
 賑やかで楽しそうな声ばかりなのに、どうしてか寂しく響いて聞こえる。
 職員室のある二階に降りてすぐ、下から土井先生が階段をあがってくるのが見えた。
 幸運なことに、周りには誰もいない。
 チャンスだ。
 緑茶のペットボトルを手に持った先生が、私に気付いたのか顔を上げたので、思い切って口を開く。
「土井先生」
「……苗字。卒業おめでとう」
 優しい笑顔を向けられて、急に緊張した。
「あっ、ありがとうございます」
「大学行っても、今までみたいに勉強頑張るんだぞ」
 遊ぶのも大事だけどな、と付け足して土井先生は笑う。
「あの……土井先生……」
 手紙を出そうとポケットに手を入れると、職員室から出てきた明るい声の群が土井先生に駆け寄った。
「あーっ、土井せんせー! 探してたのに! どこ行ってたの?」
「どこって……下の売店に……こら、くっつくな」
「せんせ、一緒に写真撮ろ!」
「うちら、先生全員と写真撮ってんの」
「ほら、これ見て、斜堂先生と撮ったやつ」
 学年で一、二を争う目立つ女子グループに囲まれて、土井先生はたじたじだ。
 からかわれて苦笑しながら、写真を撮られている。
 私はそれを羨ましい思いで見ながら、階段の方へ後ずさりしていた。
 出直そうかな。
 階段の一段目に片足を乗せながら、それでも未練がましく先生と女子グループのやりとりを見る。
 私も、あのくらいの勢いがあったらなぁ。
「先生、ついでにメアド教えてよ」
「だめだ」
 ずっと、何を言われても優しく答えていた土井先生の声が、少しだけ硬くなった。
 私だったら怯んでしまうところだけれど、先生を囲んでいる子たちは、わっと囃し立てた。
「えっ、先生彼女いるの?」
「どんな人?」
「美人? 可愛い系? 年上?」
「もしかして生徒とか?」
「えー、それ犯罪じゃん!」
「あーあ、土井先生捕まるわ」
 姦しい声が廊下に響く中、土井先生は困り顔で笑った。
「生徒なわけないだろう。写真撮り終わったなら、行ってもいいかな」
「わー冷たい」
「ってか、彼女いるのは否定しないんだ」
 からかう声に対して、土井先生は照れくさそうに笑っただけだった。
 土井先生を囃し立てる声を背中で聞きながら、急いで階段を上った。
 それ以上は何も聞きたくなかった。
 胸が苦しくて、泣きそうになる。
 手紙を渡そうと緊張しているときよりずっと、心臓がどきどきしていた。
 でも、体も心も冷えきっている。
 一時間かけて選んだレターセット。土井先生に優しくしてもらったこと、そのひとつひとつを思い出しながら、期待を込めて何度も書き直した手紙。
 もしかしたら両想いかもしれないなんて想像も、全部全部私だけのもので、先生には届かない。
 なんで、私は先生の彼女じゃないんだろう。
 土井先生の彼女って、どんな人なんだろう。
 誰かに好きになって貰うこと、好きな人に好きになって貰うことはきっと、すごく難しいこと。でも土井先生と彼女は、それが叶ったんだ。
 そう考えながら、ポケットの中の手紙を握り潰した。 
 一年後には、この気持ちも消えているだろう。
 土井先生と会わないことが当たり前の毎日になる。他の誰かを好きになって、両想いになって、少しくらいは思い出すかもしれないけれど、土井先生のことなんて忘れているはずだ。
 廊下を走る生徒を土井先生が注意するのを見ることも、売店でお昼のパンを買っている土井先生を見ることも、もうない。
 満点には3点足りないのに、「頑張ったな」と笑顔で言ってもらえることもない。
 今まで当たり前だったことが、明日からはもう当たり前じゃなくなる。
 高校生活も、土井先生への気持ちも今日で終わって、明日へは続かない。
 ここでの3年間は、終わってしまった。
 教室の前で立ち止まって、零れた涙を拭った。
 寂しくて悲しくて、不安でいっぱいだけれど、教室の窓から入る春の日差しは、とても暖かく優しかった。
 土井先生みたいに。
 これでもう、卒業だ。
「バイバイ」
 口の中で小さく呟いて、私は前に踏み出したのだった。