赤いペン先で描く宇宙

 窓の向こうには冬色の空が広がっている。
 職員室の端に置かれたテーブルに向かい、使い慣れた赤ペンを手に丸を描いていく。
 ひとつ、ふたつ、みっつ。
「……60点。後半、惜しかったな」
 斜め向かいに座った女子生徒は悔しそうに唇を尖らせた。先日欠席した彼女のために、放課後に小テストを行っていたのだ。
「そんなに難しくないだろう?」
「難しくはないですけど……小テスト前も休んでたし」
 うーん、と唸って私は教科書を手に取る。
「教科書をよく読めば分かると思うんだが……今日は間違えた箇所だけ説明するから、あとはノートを友達に見せてもらいなさい。それでも分からなかったら、また来なさい」
「はーい」
「紙、いるか?」
「紙?」
「メモとらないのか?」
「これに書きます」
 と言って、彼女は可笑しそうに笑いながら小テストを指さした。
「じゃあ、ここの問題から解説していくから」
 解説を始めると、彼女は申し訳程度にシャープペンシルを走らせる。
「――というわけだ。難しくはないだろう?」
「なんとなくは分かりました」
「なんとなくって……」
 苦笑しながら顔をあげると、職員室の入り口に立つ苗字名無しさんと目が合った。
 が、彼女はすぐに私から目を逸らした。
「山田先生、日誌です」
「おお、日直ご苦労さん」
 苗字名無しさんは山田先生が担任をしている一年三組の生徒だ。副担任は私が務めているが、授業以外で生徒たちと関わる機会はそう多くはない。当然、苗字名無しさんとも。
「土井先生?」
 呼ばれて、慌てて目の前の生徒に向き直る。
「帰ってもいいですか?」
「ああ、今日はこれで終わりだ」
「はーい。ありがとうございました。失礼しまーす」
 女子生徒の後に続いて、苗字名無しさんも職員室を出ていった。

 仕事を早めに切り上げたが、すっかり暗くなってしまった。
 大型書店の駐車場に車を停めて息を吐いた途端、ようやく暖まった車の助手席に、苗字名無しさんが滑り込むように乗り込んできた。
「寒かったぁ」
 名無しさんの鼻の頭は赤い。
「遅くなって悪かった……ずっと外にいたのか?」
「ううん。まさか。でも風が強いし、歩いてると寒くって」
 私が名無しさんと校内で関わることは滅多にない。だが、外では違う。
 時々、こうして二人きりで会う。
「さて、どこまで行こうか」
「夜景が綺麗なところ」
 と、名無しさんは穏やかに言った。
「これでも急いだんだが、随分と待っただろう」
 名無しさんは部活には入っていないので、大分長い時間待たせてしまった。運動部だけでなく文化部も選べる程にはあるのだから何か始めてみてはどうかと勧めたこともあるのだが、名無しさんは首を縦には振らなかった。
「映画見てたの。ゆっくりできて丁度よかった」
 名無しさんは事も無げに言うので、私の胸中には安堵と落胆が広がる。
「そうか。夕飯は?」
「すませました。どうせ一緒には食べられないでしょ?」
「ああ」
 市街地を抜けると明かりが減り、木々が増える。
 山の中腹にある、いわゆる夜景スポットに車を停めた。平日のせいか時間帯のせいか、私たちの他には誰もいない。
 街の灯は煌々と輝いている。
「夜景、綺麗ですね」
 名無しさんがコートを脱いだ。
「暑いか?」
「そういうわけじゃないけど」
 コートを後部座席に置くと、名無しさんはポーチを取り出した。
「先生、早く脱いで」
 名無しさんは微笑みながら、私の太股に手を置いた。白く華奢なその手は決して誘う素振りは見せず、ただ静かな重圧と共にそこに置かれている。
 拒否できないということは分かり切っている。だが私は名無しさんの説得を試みる。
「名無しさん……約束は守ったじゃないか」
「そう?」
「ああ、ちゃんと約束通りだ」
 でも、と名無しさんは歌うように言う。
「私、計ってたんですよ。土井先生、あの人と3分以上話してました」
「それは……仕方ないだろう、小テストを受けさせていたんだ。3分で終わるわけがない。仕事なんだ……生徒を追い返すわけにはいかないだろう」
「じゃあ、約束はどうなるの?」
 3分以上異性と話さない。そんな約束は到底守ることができない。名無しさんもそれは分かり切っているはずだが、頑として譲らない。
「約束したじゃない」
 名無しさんは俯きながら、私の袖を引いた。いじらしい、と思ったのとほぼ同時に、名無しさんの目がまっすぐに私を見つめた。
 少し潤んだ瞳。よく手入れされた艶やかな髪。ほんのりと色づいた頬と唇。透き通るような肌。
 初めて名無しさんを見たとき、きっと物静かな子なのだろうと思った。しかし、実際の名無しさんは意外にも溌剌とした少女で、騒がしいクラスにもすんなり溶け込んでいる。
 それでも時折垣間見せる繊細そうな一面が、どうにも私の心をくすぐった。
 彼女をもっとよく知りたいと思った。
 それは単なる好奇心であり恋愛感情ではないはずだったが、私はいつの間にか名無しさんの手中に堕ちていた。彼女ははじめからそのつもりだったのだろうと、今では思う。
 苗字名無しさんは私の想像していたような少女ではなかった。知れば知るほど、とんでもない女だ。
 ゆっくりと確実に、私は彼女の持つ暗闇に引き込まれていく。
「先生、早く脱いで。このチノパン、新しいんでしょ? 穴が開いてもいいんですか」
 おもちゃ箱を開ける子供のような顔で、彼女はポーチに手を入れる。
 細い手首がポーチの口でゆっくりと動く様が、不思議と妖艶に見える。
 金属がぶつかり合う音が車中に響く。コンパス、ミシン針、縫い針、錐、鋏。今日は何が出てくるのだろう。
 名無しさんは、私が予想もしていなかった銀色の小さなものを指先でつまみ出した。
「見て、猪名寺くんに貰っちゃった。これにインクを付けて絵を描くんだって」
 にこりと明るく笑う。
「……万年筆?」
「ううん、丸ペン……だったかな。よく分からないけど、素敵でしょ。どこで買えるか訊いたら、ひとつくれたの。猪名寺くんって親切だよね」
「……名無しさんはいつも、男子と親しくし過ぎだ」
「いけない? クラスメイトと仲良くしちゃダメ?」
「いや」
 いいことだが、そうではなくて。
「だが……ずるくないか、私ばかり約束させられて」
 私がそう言うと、名無しさんは俯いた。
「約束したじゃないですか、私のいうこときくって」
 ゆっくりとポーチのファスナーを閉める。
「覚えてないんですか? 覚えてるでしょう?」
 覚えている。
「全部、録音してあるの知ってるでしょう? 土井先生、私よりずっと頭良いんですから分かってますよね、私と先生の関係がばれたらどうなるかくらい。分かってて、私と付き合ってるんですよね。全部ちゃんと考えて、私が告白したときに受け入れてくれたんですよね。卒業まで恋人らしいことは何もしないけど、私のこと好きだって言いましたよね、卒業したら恋人になりたいって。でも、今すぐ恋人になりたいって私の我が儘をきいてくれて、嬉しいです」
「それは名無しさんが……」
「うん。私が、ばらすって言ったからですよね。録音を公開するって。私、時々あの日の録音聞いてるんです。すごく幸せな気分になれて、大好きなの」
 ふふ、と名無しさんは幸せそうに笑う。
「だから、こうやって車で会ってるのも撮影してるんですよ。先生、もしかしたら気付いてなかったかもしれないけど、ずっと撮ってるんですよ。もし土井先生が私との約束を破ったらなんてこと考えたくないけど、不安になる日もあって、私すごく悩んじゃうんです、どうやって、どこで動画を公開しようかなーって。どうやったら一番、たくさんの人に興味を持って見てもらえるのかなーって。でも本当は、私だけの宝物にしたいから……先生の笑顔も困った顔も、泣き顔も独り占めしたいの。だから、先生、約束守ってくれますよね?」
「ああ……勿論だよ」
「嬉しい。大好きです、土井先生」
「私も、大好きだよ」
 知っている。
 彼女が私を好きだということも、彼女がくれた熊のぬいぐるみに盗聴器が入っていることも。彼女の制服のボタンや鞄にカメラが仕込まれていることも。ずっと前から知っている。
 だが、そんなことは構わない。
 彼女が私を好きならそれでいい。名無しさんの初恋は私だという。こんなことをするのは初めてで、私の全てを自分のものにしたいのだという。支配したいのだと言う。
 なんとも可愛らしいではないか。
 そう仕向けられているとも知らずに。
 彼女の恥じらう姿も不安そうな表情も静かな怒りや嫉妬も、教室では決して見ることができない。私だけの名無しさんだ。
 私だけの宝物。

「ねぇ、先生。早く……お仕置きはお仕置きなんですからね」
 頷いて、シートを後ろにさげた。靴を脱ぎ、靴下に手をかける。
 そうだ、と名無しさんが明るく声を上げる。
「新しい革靴のせいで靴擦れが酷いんです。って相談したら、川西先輩がこっそり消毒液を分けてくれたの。優しいよね。でも、すごく滲みるらしいから我慢してね」
 名無しさんは液体の入った瓶を振る。瓶の中で小さな波が砕けては散る。
 膝を抱くような格好で、裸になった足をシートに乗せた。
 名無しさんの冷えた指先が足の甲を撫でたので、思わず身体が跳ねた。
「冷たい? ごめんね」
 名無しさんは摘んだままのペン先を、視線の高さでくるくると器用に回転させた。ペン先に夜景が映り込んだような気がした次の瞬間、私は息を呑んだ。
「……っ……うっ……」
 右足の親指。その爪と肉との間にペン先がめり込んでいる。
 はっきりとそう認識したのとほぼ同時に、爪の間に血が滲んでいく。
 数秒、何かを待つようにしてから名無しさんはペン先を引き抜いた。
「ね、先生の血で、字は書けると思う? 私、猪名寺くんみたいに絵は得意じゃないから」
 名無しさんはノートを取りだすと、『土井』と書いた。
「掠れちゃった」
 傷が鈍く、甘く痛む。
 優雅にも見えるほど緩慢な動きで、名無しさんは爪の間に溜まった血液をペン先で掬うと、再度それをノートに滑らせる。
 『土井名無しさん』と、赤い文字が並ぶ。
 相変わらず達筆だと、頭のどこか遠いところでぼんやりと考えた。
「先生」
 彼女は妖艶に笑う。
「消毒しましょうか」
「ああ、頼む」
 名無しさんからペン先を預かると、手のひらに血がこぼれた。
 鮮やかな赤。
 これが本当に名無しさんのものではなく、私の血なのだろうか。
 美しい赤。
「土井先生?」
 手のひらのこれはやはり私の血なのだと判った。
 私を呼ぶ名無しさんの唇は、更に赤く美しい。
「結婚しましょうね」
「名無しさん」
 唇を寄せると、名無しさんは恥じらうように顔を背けた。
「先生……卒業まで……何もしないって……」
「どうしても?」
「だめです」
「そうだな……ごめん」
 謝ると、名無しさんはどこにでもいる平凡な少女のように微笑む。
 薄気味が悪いと思うと同時に、強く惹かれる。
 この子の中にはどんな世界が広がっているのだろうか。彼女の目に映る景色を、私はわずかでも彩っているだろうか。
 彩っていなくてはいけない。
 彼女の本質は暗い星雲のようで、私の目ではとらえにくい。だからこそ、どんなことをしてでも本当の名無しさんの姿を知りたいと強く願う。
 そして同時に知る必要がないとも思う。何故なら例えそれがどれほど醜くかろうと、私には美しく見えるのだろうから。
 いやむしろ、本質が醜ければ醜いほど私は嬉しいのかもしれない。

 何年か後、何十年か後でもいい。
 名無しさんの白い首に手をかける。細く温かく、脈が触れる。
 ゆっくりと力を込めて締め付けたなら、名無しさんはどんな顔をするだろう。驚きか、恐怖か、怒りか、失望か、恍惚か。
 苦痛に顔を歪める彼女の耳に愛を囁き、赤い唇にキスをする。
 そのとき彼女は悟るだろうか。
 名無しさんの行動は全て私の思惑通りだったのだということを。それが全て、その瞬間のためだったということを。彼女が私を想う以上に、私が彼女を想っていることを。
 名無しさんは解ってくれるだろうか。
 名無しさんと出会ってから、私はその日を夢見ている。

「土井先生、足が痛いんですか?」
 山田先生にそう問われて初めて、無意識に足を引きずっていたことに気がついた。
「いやー、なんだか靴がきついみたいで」
 苦しい言い訳だが、汚れた上履きのせいで妙に説得力がある。
 信じたとも呆れたともつかないが、山田先生は苦笑した。
「きついって……靴くらい買いなさいよ」
「はい」
 名無しさんのおかげで、中も大分血で汚れてしまっている。週末に靴を買いに行こう。何色がいいだろうか。
「失礼します」
 不意に、明るい声が職員室に響いた。
「土井せーんせっ」
 教科書を持った女子生徒が、小走りにやってくる。
「昨日教えてもらったところ、もう一回教えてください」
「なんだ、やっぱり分からなかったか?」
「だって……先生の教え方が下手だから」
「なんだと」
「うそうそ、ちょっと自信ないから確認したくて」
「で、どこなんだ?」
 女子生徒の髪が鼻先をかすめて、にやけるのを必死で我慢した。
 名無しさんはどうするだろうか。想像するだけで、ぞくぞくするような興奮を味わえる。
 怒るだろうか、悲しむだろうか、笑うだろうか。どんな言葉を投げかけてくるだろう、何を使うだろう。
 足の傷が熱く疼く。
 彼女が見せる暗闇を覗く度、私はそこに囚われていく。
 目を凝らしていると、ふとした瞬間、暗闇だと思っていたそこに小さな星が点在することに気がついて、尚更心奪われる。
 痛みが走れば、幸福と恍惚と後悔が闇にはじけて星屑になる。それは輝きながら砕けて、私の心に降り積もっていく。いつしかきっと、遠い星の広大な砂漠のようになるのだろう。
 暗い星雲の中、そこが彼女の住む星になるといい。高く持ち上げた彼女の手から、淡く輝く砂がこぼれるのを眺めていたい。
 彼女が支配する星。
 私の統べる宇宙。
 私は名無しさんに、どこまでも暗い場所に一緒に堕ちてほしいのだ。