ビター

 半助は森の中の僅かに開けた場所で、星空を見上げていた。
 大きく息を吐くと、白い息が瞬く星を隠してしまう。
 不意に微かな血の臭いが、半助の鼻先を掠めた。
「医務室で診てもらったらどうだ」
 半助は、振り向きざまに恋人の名を呼んだ。
「名無しさん」
「いらない」
 青白い顔をした名無しさんは首を振る。
 道から外れた森の中だが、彼女は旅の途中といった装いだ。
「完全な部外者だし」
「それはそうだが、その傷……」
「知り合いに診てもらうから構わないで。半助に用事があって寄っただけだから」
 星明かりから逃れるように、名無しさんは木の陰に立つ。
「任務の後に、傷を負ったまま来るような用件か?」
 言い返すような息遣いの後、名無しさんは暫し黙っていたが、やがて小さく笑いながら口を開いた。
「半助とは、もう会わない」
 そうか、と半助は短く答えた。
「驚かないの?」
「散々匂わせていたくせに」
 言いながら、半助は名無しさんに近付いた。
 落ちた木の葉や枝を踏む音が名無しさんの隣で止まり、彼女は顔を上げた。
「理由、知りたい?」
「……聞くべきか?」
 名無しさんは首を振る。
「ならいい」
 死人の泣き声のように暗い足音で、風が木立の中を駆けていくのを、半助と名無しさんはじっと聞いていた。どちらも動かず、そのまま凍りつきそうな様子でいたが、強い寒風に名無しさんの体がふらついた。
 名無しさんが微かに呻くと、半助は彼女の腕にそっと触れた。
「名無しさん、怪我を見せてみろ。血は止まっているのか?」
「本当は」
 名無しさんは半助を真っ直ぐに見つめた。
「半助のこと、誰にも渡したくない」
「名無しさんの方から手放すのにか?」
 言って、半助は自嘲気味に笑う。
 名無しさんはそれを見て満足そうに目を細めた。
「もう手元に置いておけないけど、他の人のものになるのは嫌だってこと、あるじゃない」
「まぁ、そうだな」
 半助は明るい口調で事も無げに答えてから、僅かに声色を変えた。
「どこに行くんだ」
「とても遠く。なんだ、理由知ってるんじゃない」
「知らない、ということにしておいてくれ」
 ふふ、と名無しさんは笑う。
「半助」
 空を見上げる名無しさんを、半助は黙って見つめていた。
 星明かりに淡く照らされる名無しさんは、少女なのか女なのか判ずるのが難しい。
 だが、その声音は少女のものではなかった。
「ずっと私だけのものでいて」
 名無しさんの言葉は、夜の闇に重く沈んでいく。
「他の女なんて目に映さないで」
「他の女もなにも……生徒のことで手一杯だよ」
 半助が努めて明るくそう言うと、名無しさんは咎めるような視線を送った。
 それでも半助には、彼女の瞳はこぼれた星屑を掬いあげて輝いているように見えた。
「そこまで言うなら、別れなくてもいいだろう。名無しさん」
「困らせないで」
「全て、捨ててくれないか」
 半助は名無しさんを真っ直ぐに見つめる。
「名無しさんが仕事に誇りを持っているのは分かっている。生きる術だということも。でも、私と生きる道を選んではくれないか。一緒に生きていこう、二人で……夫婦になって……ずっと」
 名無しさんは小さく笑った。
「私だけ捨てなきゃいけないの?」「それは……」

 言い淀む半助の胸を、名無しさんは指先でそっと押す。
「ずるいよね」
「それなら、名無しさんは私に何を望む? 何を捨てろと言うんだ!」
 ああ、名無しさんに誘導された。半助がそう気付いたのは、全て言い終えた後だった。
 待っていたとばかりに、名無しさんが懐から取り出した包みの中には、丸薬が二つ入っていた。
「ひとつは眠り薬、もうひとつは毒薬」
 言いながら、名無しさんは半助から一歩退く。
「私か、命か、どちらかを捨てて」
「どのみち、一緒にはなれないということか」
 半助の言葉は、独り言のように響いた。
「眠り薬を選んでも、寝首を掻かれそうな気がするな」
 真剣な顔で冗談混じりに言って、半助は丸薬に手を伸ばす。
 名無しさんは口を噤んだまま水筒を取り出すと、半助に手渡した。
 半助は名無しさんと目を合わせず、丸薬を口に放り込み、水を含んだ。
「……そっちでよかったの?」 
 名無しさんがそう訊ねたのと同時に、半助は彼女の腕を掴んで捻りあげた。そして、空いた手で彼女の腰を抱き体を倒すと、口移しで丸薬を飲ませる。
 傷が障るのか、名無しさんは抗わずにいた。
 半助は名無しさんを静かに地面に横たえ、そのまま深い口付けを幾度も交わす。
 どちらのものともつかない吐息が、白く上る。
 半助も名無しさんも我を忘れることなどできず、終わりの気配を感じながら、それでも互いを繋ぎ留めるように唇を重ねた。
 最後に慈しむような口付けを残し、半助は名無しさんから顔を離した。
 名無しさんはゆっくりと瞬きをして、半助の顔と遠い星空をその目に映す。
「お前が本気なら、毒でも構わなかった」
 睦言のように言った半助の瞳は、微かに揺れていた。
「嘘つき」
「嘘じゃない」
「半助……女はそれくらいじゃ騙せないよ」 
 冷えた手が、半助の頬を撫でる。
「でも、騙されてあげる」
「ありがとう」
 半助は名無しさんを抱き上げた。
 怪我のせいか薬が強いものなのか、半助には分からなかった。どちらにせよ効き目は早く、名無しさんはもう眠っているも同然の状態だった。
 瞼が落ちる度、ゆっくりと開く。
「手当が終わって目が覚めた後のことは、名無しさんに任せる」
 名無しさんは眉根を寄せ、息を深く吸った。半助はそれを傷の痛みのせいだと思ったが、実際は、僅かに希望を宿した半助の声音のせいだった。
「……半助」
 響いたのは凛とした、いつもの名無しさんの声だった。
 眠気も痛みも、別れの寂しさも、これまでの愛情も感じさせない、真冬の夜の空気のように、ただただ透き通った声だった。
「さよなら」
 半助を見つめる名無しさんの瞳には、星が映っていた。彼女が瞬きをする度に星は消え、また現れる。
 沸き上がる感情を抑えて、半助は決意と共に口を開いた。
「さよなら、名無しさん」
 満足そうに目を閉じた名無しさんを抱え、半助は忍術学園の医務室を目指す。
「星には手が届かない、か」
 口の中でそう呟いて、半助はそっと笑ったのだった。