春休みに家に戻ったと思ったらとんぼ返りだ。
乱太郎たちとの待ち合わせ場所に、土井先生とふたりで向かっている。
昨日は土井先生と奥さんの名無しさんさんが喧嘩をしていたけれど、おれが弁当売りのアルバイトをしている間にどうにか仲直りしたみたいだ。今朝はにこにこしながら送り出してくれた。ちょっと名残惜しそうではあったけどな。
「今日は遅刻しないですみそうですね」
「それが普通なんだ!」
土井先生が顔をひきつらせながらそう言って、すぐに驚いたように後ろを向いた。
それにつられて後ろを振り返ると、名無しさんさんが駆けてくるのが見えた。
「半助さーん! きりちゃーん!」
家からまだそんなに離れていないけど、ずっと走ってきたのかもしれない。名無しさんの顔は真っ赤だ。
「名無しさんさん、どうしたんすか?」
「きりちゃんに渡すものがあったの」
名無しさんさんはそう言って小さな袋をおれに手渡した。中を見なくても音と重さで分かる。銭だ。
「少ないけど、食費の足しにでもして」
「えっ? な、なんでぼくに?」
驚いて言うと、名無しさんさんは息を切らせながら、にっこりと笑った。
「だって、きりちゃんいつも家のこと手伝ってくれるでしょ。出掛けに渡そうと思ってたんだけど、うっかりしてて……すぐに気づいてよかったぁ」
「……いいんですか?」
「うん」
「ありがとうございます」
おれ、アルバイトばかりで、そんなに手伝いなんてやってないと思うんだけどな。買い物に行ったり食事の準備を手伝う程度で、名無しさんさんにアルバイトを手伝ってもらうことの方が絶対に多いってのに。
きっと内職で貯めた銭から出してくれたんだ。あの家でひとりぼっちで内職をしている名無しさんさんを思い浮かべると、嬉しいけど申し訳ないような気持ちになった。
けど、もらえるもんはもらっとかないと、どケチがすたるぜ。
「よかったな」
土井先生がそう言いながら、おれの頭に手を置いたりするから、なんだか急にこそばゆくなってきた。
それに気づいたのか、名無しさんさんが小さく笑った。
「じゃあ、ふたりとも気をつけてね」
「名無しさんも、気をつけて家まで帰るんだぞ」
「すぐそこよ?」
名無しさんさんは呆れたように言うと、少しだけ寂しそうな笑顔を先生に向けた。
「いってらっしゃい、半助さん」
「いってきます」
あーあー、見つめ合っちゃって、見てらんないよ。なんて思ってたら、名無しさんさんがおれを見た。
「きりちゃんも、いってらっしゃい」
「い、いってきます」
名無しさんさんに手を振る。
「夏休みに帰りますねー!」
「待ってるね。お勉強、頑張って! 半助さんも授業頑張ってね!」
少し歩いて、なんとなくまた後ろを向くと名無しさんさんはまだこっちを見ていた。おれが振り返ったのに気づくと、優しく笑って手を振ってくれる。
土井先生も振り向いて、おれたちはもう一度名無しさんさんに大きく手を振った。
名無しさんさんはかーちゃんって感じじゃない。会ったばかりの頃ならともかく、今はお姉さんってのとも何か違う。勿論、土井先生はとーちゃんでもお兄さんでもないわけで、その奥さんだから当然なのかもしれないけど。
土井先生と名無しさんさんとの生活、結構気に入ってたりするんだよな。どこがどうって言えないけど、言えない割にいろいろあって、そこがいい感じなんだ。
邪魔じゃないかなーなんて思うこともあるけど、邪険にされたことなんて一度もないし、帰りが遅かったら怒られる。
アルバイトだって手伝ってくれて、今では名無しさんさんの造花づくりの腕前はプロ並みだ。隣のおばちゃんとも仲良くやってるみたいだし、大家さんも名無しさんさんにはめちゃくちゃ優しくて、追い出される心配もなくなった。名無しさんさん様様だ。
土井先生なんかに嫁いじゃって大変だなーとも思うけど、なんだかんだで仲がいいし、きっと幸せなんじゃないかな。
家に帰ったときに「おかえり」って言ってくれる人がふたりもいるって、いいもんだなって思う。
だから、おれもきっと幸せなんじゃないかな。
「土井先生。今学期はちょっとだけ勉強頑張ろうと思います」
「どうしたんだ、急に。というか、ちょっとじゃなくて目一杯頑張ってくれ」
だって、補習がなくて土井先生が夏休みにちゃんと家に帰れたら、きっと名無しさんさんは喜ぶだろうな、と思ったんだ。