朝刊の配達を終えたきり丸が家の暖簾を潜ると、飯の炊ける甘い匂いが漂っていた。
「ただいまー。あれっ……土井先生、何やってんすか?」
土間にいたのは名無しさんではなく、半助だった。
「おかえり。何って、炊事だ」
「えっ」
きり丸が焦った様子で部屋の奥を覗くと、布団に横になった名無しさんの姿が見える。
「……名無しさんさん、具合悪いんですか?」
「違う、違う。まだ眠っているんだ」
半助は苦笑しながら首を横に振る。
「ゆうべ、遅くまで寝付けなかったようだから……もう少し寝かせておいてやろう」
きり丸は納得したようだったが、小さく舌打ちした。
「ちぇっ、名無しさんさんの飯が食いたかったなぁ」
同感だ、と言いかけて、半助は口を噤んだ。きり丸に知られるのはどことなく気恥ずかしい。
半助が話題を逸らそうと試みるより先に、きり丸が心配そうに口を開いた。
「今日、何か町内行事があるって、名無しさんさん言ってませんでした?」
とっさに、半助は顔をしかめる。
「井戸ざらいか? それともどぶ掃除か? どっちにしろ昼には学園に戻らなきゃならないんだぞ」
「あれ? 家賃を払う日だったかな? 土井先生、名無しさんさんから何か聞いてません?」
半助は帰宅してからの名無しさんとの会話を思い返してみる。
「いや……何も聞いてない、と思う。うーん……聞いたような、聞いてないような」
腕を組んで考え込む半助に、きり丸は眉根を寄せる。
「土井先生、しっかりしてくださいよー」
「家のことは名無しさんに任せきりだからなぁ」
半助は弱りきって言う。
「起こします?」
ふたりの視線の先で、名無しさんは幸せそうに寝息を立てている。
起こすのは、どうにも可哀想だ。各々そう考えて、小さく唸る。
「きり丸、隣のおばちゃんに聞いてきてくれ」
「えーっ、嫌ですよ。先生が行ってきてくださいよぉ」
「わ、私はとりあえず家賃を払ってくる」
「あー、ずるい!」
「ずるくない! 大体、お前は家賃を持っていっても銭を手放せないだろうが!」
「そりゃそうっすけど!」
段々とふたりの声は大きくなり、殆ど怒鳴り合いになる。
「ちょっと……」
眠そうな声が家の中に響き、半助ときり丸はそちらに顔を向けた。
「半助さん、きりちゃんも……朝から喧嘩しないで」
ふう、と小さく息をついて名無しさんが立ち上がる。
「寝坊して、ごめんなさい。すぐに着替えるから」
名無しさんが閉めた戸に向かって、半助ときり丸は焦ったように声を掛ける。
「いや、まだ眠っていていい」
「そうですよ。朝飯の用意は、土井先生とぼくでしますから、名無しさんさんは休んでてください」
「家賃も私が払ってくるし、名無しさんはもう少しゆっくりしていたらどうだ?」
「どぶ掃除も、ぼくたちが忍術学園に戻る前に、ちゃんとやりますから!」
半助ときり丸は名無しさんの喜ぶ声を期待したが、戸の向こうからは衣擦れの音と、呆れたような溜息が聞こえるだけだ。
「名無しさん?」
「名無しさんさん?」
からり、と戸が開いて名無しさんが顔を出す。
「家賃は一昨々日に払いました。それに、どぶ掃除は来週よ」
半助ときり丸は、居心地悪そうに顔を見合わせた。
その場を取り取り繕う言葉を半助が探していると、名無しさんが先に口を開いた。
「でも、ふたりともありがとう。朝ご飯にしましょ、お腹空いちゃった」
名無しさんのとびきりの笑顔に、半助ときり丸も顔を綻ばせたのだった。