Trick or Treat

 そろそろ帰ろうか。と、どちらが言い出したわけでもなく、足は自然と名無しさんが利用するバス停へと向かっていた。
 日曜の19時過ぎ。
 どこか離れた場所からは賑やかな声が聞こえるが、オフィス街は人通りもまばらだ。
 「いつものコーヒーショップに寄らないか」と言いたいのをぐっと抑える。食事を終えたばかりだし、私は明日も仕事だし、名無しさんだって授業があるだろうからもう帰った方がいいだろう。
「土井先生」呼ばれて、名無しさんに目をやる。「Trick or Treat!」
「え?」
 わけが分からず、立ち止まった。とりっくおあとりーと、と私が口の中で呟いている間に、名無しさんは恥ずかしそうに笑いながら、鞄の中から何かを取り出した。
「明日、ハロウィンなので」
 言われてみればそうだった。そこかしこで見かけてはいたが、あまりに縁遠いイベントなので頭になかった。
「なんだか照れくさくって、なかなか切り出せなくて帰り際になっちゃいました」
 名無しさんから、オレンジと黒のラッピングを受け取る。
「ありがとう」
「アイシングクッキーです。買ったやつ」
 とっても可愛いんですよ、と妙に楽しそうに説明する名無しさんがなにより可愛い。正直、アイシングクッキーと言われてもぴんとこない。
「というか、逆じゃないか?」
 そう言うと、名無しさんは首を傾げた。
「Trick or Treatと言われた私が、名無しさんにお菓子をあげるんじゃないのか?」
 ああ、と納得したように呟いて名無しさんはくすくすと笑う。
「それはそうなんですけど、雰囲気で」
 名無しさんは静かに鞄を肩に掛け直し、伏し目がちに腕時計を見た。
 緩やかにカーブした彼女の睫が小さな影を落とす、柔らかそうな頬。手を伸ばそうかと迷っていると、名無しさんの唇がゆっくりと動いた。
「急げばバスに間に合うかも……」
 思わず、名無しさんの手を掴んだ。
「土井先生?」
 そのまま引き寄せると、彼女は体を強ばらせる。そういう反応は初々しくて可愛いけれど、時々焦れったくなる。
 それをまた楽しんでいる自分がいるのも事実なのだが。
「もう帰らなくちゃいけない?」
 名無しさんの家の門限はあまり厳しくないようだが、夜道は危ないし引き留めちゃいけない。と、思ってはいる。
「次のバスでもいいんじゃないか? まだ一緒にいたい」
 腕の中で恋人が困っているのがありありと伝わってくる。変な意味はないし、今から向かってもきっとバスは出てしまうだろうし、どのみち一緒にいるしかないだろうから、そこまで困らなくてもいいだろうに。
「ダメ?」
 わざと耳元で囁くと、名無しさんは小さく首を振る。
 ちょうど街路樹の陰にいることだし、ちょっとからかってみようか。
「名無しさん、Trick or treat」
 予想通り返事がないのをいいことに、名無しさんの耳にわざとらしくちゅっと音を立てて口付けると、勢いよく腕をふりほどかれた。
 名無しさんは真っ赤な顔で耳を押さえている。
「お、お菓子……あげたじゃないですか」
「そうだった」
「と……Trick or treat」
 そう言う名無しさんは少し悔しそうな表情で、まだ頬を赤く染めている。
 私を困らせようとしているんだろうなと考えた刹那、何故か恋人同士ではなく教師と生徒に戻ってしまったような気がした。いまだ縮めきれない距離のせいか、こういう瞬間は間々ある。
 恋人だと確かめたくなって、名無しさんにキスをした。
 触れるだけで我慢したというのに、彼女は大きく目を見開く。
「何でですかっ」
「ん?」
 名無しさんがぶんぶんと首を振る。
「逆です! 逆!」
 何の話だ、と思わず眉根を寄せる。
「ああ、そうか」
 お菓子をあげないなら私が悪戯される側か。今のキスは悪戯のつもりではなかったが。
 しかし、動揺している名無しさんを見ていると、少々いじめたくなってくる。
 うーん、とわざとらしく唸りながら、名無しさんの手を取った。
「私が名無しさんにあげられるものは、今のしかないな。足りなかった?」
 指を絡めて一歩分引き寄せると、ふわりと甘い香りがした。前髪の触れる距離で、できるだけ思わせぶりに囁く。
「で、名無しさんは私にどんな悪戯をしてくれるつもりだったんだ?」
 何故か真っ赤になって俯いた恋人の手を引いて、否応なしに来た道を戻る。
 可愛い恋人に、甘いラテでもご馳走しよう。