「来るって約束したよね」
うっ、と半助くんが詰まるのが分かった。
「約束はしたが……その、どうしても……」
電話の向こうで黙り込む。次の言葉は分かり切っているのだが、あえて待つ。
「……行けなくなりました」
平謝りしているのが遠くに聞こえる。
何回目だろうこのパターン。そう思うのと同時に一方的に電話を切ってしまった。
「あーあ」
やっぱりね。残念。馬鹿半助。
ドアの隙間から漂ってきたバターの香りを胸一杯に吸い込む。実家から送られてきた大量の林檎を消費しようと、アップルパイを焼いていたのだ。
消費すべき量もカロリーも増えているような気もするけれど、気のせい気のせい。
遊びに来るというから、張り切って3つも焼いてしまった。どうしてくれようこの意気込み。
すでに冷めたアップルパイをひとつ、パイ皿ごとラップとアルミホイルで包んでジッパーつきビニールバッグに入れる。
「間違えて買ったLサイズがこれほど役立つ日が来るとは……」
財布と携帯とアップルパイをバックパックに詰め込んで、部屋を出た。自転車で15分ほどの半助君のアパートへと向かう。
もし大家さんか隣のおばちゃんに出くわしたら、アップルパイをもらってもらおう。その方がアップルパイも幸せに違いない。
そう思っていたにもかかわらず、結局誰にも遭遇せずに私は半助くんの部屋の前にぽつねんと立っている。
「よし」
意を決してドアポストに押し込むと、がこん、と音がした。
ごめんよアップルパイ。君に罪はないのだが、如何せんこうするしかないのだ。
「えーっと……『ポストを見よ』と」
メッセージを送信して時間を確認する。
まだお昼過ぎだから、今から来てもらえばちょうどいいかな。でも土曜の午後だし、みんな予定あるかな。
少し悩みながら、連絡先から目当ての子を探して電話をかける。
「あ、しんべヱくん? あのね、実は……」
「お邪魔しまぁーすっ!」
そろそろおやつの時間という頃に、11人の子供たちがわらわらと部屋に入ってくる。
「手洗いうがいしてねー」
「はーい」
重なったりひっくり返ったり、縦横無尽に吹っ飛ばされている靴を一足ずつ揃えていく。子供の靴とはいえアパートの狭い玄関には並べきれないので、新聞紙を敷いてその上に置く。
「おい、押すなよー」
「皆、ハンドソープ使わなきゃ駄目だよ」
「ああっ! 一度にそんなに出すなんて勿体ない!」
「押したら勝手に出てくるんだから仕方ないよ」
「ねぇ、一列に並ぼうよー」
「全員で洗面所に入るのは無理があったんじゃない?」
「虎若、まだ泡がついてるよ」
「えっ、どこ?」
「しんべヱ、よだれよだれ」
「だってアップルパイの匂いがするんだもん」
「ナメちゃんたちも食べるかなぁ?」
嗚呼。
「……喜三太くん、ちょっと……来てくれる?」
「はにゃ?」
手招きすると喜三太くんは可愛らしく首を傾げる。
申し訳ないが、喜三太くんのナメクジたちをビニール袋の中に隔離させてもらう。
「ナメちゃんたち息できるかなぁ~?」
「できるできる。大丈夫!」
逃げないかどうか不安になる程度に隙間があるので余裕だろう。
手を洗い終えた子供たちに、紙パックのお茶とアップルパイを配る。うっかりしていてお皿が足りなかったけど、ホイルで大丈夫そうだ。
子供たちの食べっぷりを見ているともっと焼いてもよかったくらいだし、勿体ないから半助君のポストに入れるんじゃなかった。
「あれ、携帯鳴ってますよ?」
「出ないんですか?」
「いいのいいの」
どうせ半助くんだ。
一旦サイレントモードにしかけて、やめた。どうせ彼はすぐに仕事に戻るだろう。放置だ放置。
案の定、すぐに携帯は鳴り止んだ。
おやつを食べて学校の話や流行の遊びの話を聞いているうちにあっという間に時間は過ぎて、日が暮れるのも早いので解散の運びとなった。
「ごちそうさまでした!」
「またねー気をつけて帰ってね」
はーい、と近所迷惑になりそうなくらい元気な声が響く。
よい子たちの帰った部屋は一気にがらんとして、楽しかった分よけいに寂しい。
換気をしながら、フローリング用の粘着クリーナーで床に落ちたパイくずを掃除する。思いの外、かなりの広範囲に散らばっている。
ついでに部屋中掃除するか。
「……こんなもんかな」
ようやく掃除を終えて、窓とカーテンを閉めた。それでもまだ部屋の中には甘ったるい匂いが残っていた。
21時過ぎ。突然、呼び鈴が鳴る。
夜間のアポなし訪問はお断りだ。と、無視を決め込んでいると、携帯がに電話がかかってきた。
無言のまま耳に当てる。
「部屋に、いるんだろ?」
ここで許すかどうか、毎回試される。半助くんが困り果てるくらいのヒステリーを起こしてやれたらいいのに。
「……ごめん」
そのまま沈黙が続くので、電話を切って玄関へと向かう。
ドアを開けると、しょぼくれた半助くんが薄明かりに照らされる。
「これ」
差し出されたパイ皿を受け取る。
「美味しかった」
食べたのか。
ラップとホイルで包んだけど、片寄ってぐちゃぐちゃになってたんじゃないのかな。可哀想なアップルパイ。哀れな半助くん。
「今日も約束を守れなくて、ごめん」
申し訳なさそうな顔。パーカーだけで寒くないのかな。ああ、車で来たのかな。
怒るのも許すのも面倒くさくなって、関係ないことを考えていた。
考えていたはずなのに、ふいに、銀色のパイ皿の上に水滴が落ちて鈍く光った。
半助くんは、はっとした表情を浮かべた後、静かに玄関に入るとドアを閉めた。
私は涙が止まらなくなって、パイ皿で顔を隠す。
怒っているわけでも悲しいわけでもなくて、ただ嫌になってしまっただけだった。何がといわれても分からないけれど。
「ごめん、いつも……」
同じ言葉を繰り返しても意味がないと、半助君は思ったのかもしれない。
「……子供たちを呼んでくれたんだってな。きり丸が、アップルパイ美味しかったって……喜んでた」
パイ皿に半助くんの手がかかる。そっと押し下げられて、目が合う。
「ごめん。楽しみにしてたのに……」
楽しみにしてたのは私か、半助くんか、二人ともだろうか。
「……全部、食べたの?」
「半分」
そう言って、半助君は笑いながらパーカーの袖で私の涙を拭う。
嬉しかったのも束の間、私の眉間にしわが寄った。
「なんか、服、臭い」
「えっ」
半助くんは慌ててパーカーのにおいを嗅ぐ。
「あ、洗ったばかりなんだが」
「でも、ほんのり臭う」
「そうか? あー……うーん、言われてみれば……最近天気が悪くて部屋干しにしてるからか?」
そんなの知らないよ。
あほくさい。
目が合って、お互いに吹き出した。
その勢いのまま倒れ込むように抱きついて、受け止めてくれた半助くんの後頭部をパイ皿で軽く叩いた。彼の髪が全ての衝撃を受け止めたようで、期待外れな音がした。
「いつもと違う甘い匂いがする」
「アップルパイ、3回も焼いたから」
話を聞いているのかいないのか、半助くんは黙って後ろ手に鍵をかけると、私を軽々と抱き上げながら靴を脱いで勝手に部屋にあがる。
広い肩に手を置きながら、私は首を傾げる。どうしていつも許しちゃうんだろう。惚れた弱みかな。
ベッドに腰掛けた半助くんの膝の上で、素知らぬ素振りをする。それよりこのパイ皿どうしよう、と持て余しているとパイ皿に半助くんの顔が映った。
パイ皿越しに目が合う。
「まだ怒ってる?」
「知らない」
半助くんは私の手からパイ皿を取り上げて床に置く。彼の胸を肩でそっと押して、抱きかかえられながら静かにベッドに倒れた。
「一緒に暮らそうか。半分くらいは……約束を破らなくてすむ、かもしれない」
「私、同棲はしない」
うーん、と頭の上で唸り声がした。
「ちょっと、意味が違うんだが」
「毎日アップルパイが食べたいってこと?」
「いや、それはちょっと……」
「じゃあチョークでも食べたら」
起きあがって半助くんに跨がり、パーカーのファスナーを下ろす。
「これ、やっぱり臭う」
脱がせるとお馴染みの着古したTシャツが出てくる。
「何で中、半袖一枚なの。寒くない?」
冷え性故の冷たい手でへそを触ると、うひゃあ、と情けない声を出す。
「手、冷えすぎだろう」
「もう秋だから、これからの季節は常にこんな感じだよ。毎年こうじゃん」
「夏も冷たいだろ」
半助君は両手で私の手を包み込むようにすると、なんともいえない笑顔を浮かべる。
「温める?」
「反省してないでしょ」
膝を肋骨の下にぐりぐりと強く押しつける。
「してるしてる。痛い痛い痛い、痛いって」
大きな手が私の両膝を押さえた。
しばらくその温かな手首を掴んでいたけれど、唐突に右手を彼の胸の真ん中に置いた。
心臓の鼓動が伝わってくる。静かで規則正しい動き。
一緒に眠っているときに思うことがある。半助くんの心臓は、半助くんらしい音がするって。
私はその音が好きだ。
何度でも彼を許してしまうくらいに。
「……美味しかった?」
「美味しかったよ。また作ってくれる?」
「食べてくれるなら」
「食べたいよ」
おいで、というように差し伸べられた手に頬を寄せる。その手に優しく引き寄せられる振りをしながら、半助くんにキスをした。
半助くんの唇に触れる寸前はいつも、ファーストキスみたいな気持ちになる。甘いのか辛いのか分からない。もうずっと忘れていたような、二度と感じられないと思っていた気持ちにさせてくれる。
半助くんはどうだろう。
いつか、訊いてみたい。
「シナモン?」
「え?」
「髪が、そんな匂い」
仲直りの後、半助君はベッドに寝ころんだまま私の髪をもてあそんでいた。
「アップルパイでしょ」
「ああ、そうか……」
「今日は部屋中アップルパイの香り」
「……アップルパイか」
と言って、半助くんは急に照れくさそうな顔をした。
「結婚しようか」
どうしてこの会話のこのタイミングなんだろう。この人はどうしてこうなんだろう。
唐突な言葉に呆れながらも、私は頷くしかなかった。
私がおばあちゃんになって半助くんがおじいちゃんになっても、アップルパイを焼いてあげよう。その頃にはきっと、甘いのか辛いのか分からない私たちの人生がたくさん詰まってる。