「雑渡さん」
書斎のドアをノックする。
「どうぞ」
という返事をちゃんと待ってから、勢いよくドアを開けた。
「Trick or treat!!!」
「――悪戯してくれるの?」
と、雑渡さんはラップトップに顔を向けたまま言う。珍しく早く帰ってきたと思ったら、食事と入浴の後は部屋に籠もりきりだ。
「また持ち帰りの仕事?」
「いや、ネトゲ」
「は?」
思わず低音になった。
「嘘嘘、仕事に決まってるでしょ」
ゲームする暇あるなら名無しさんちゃんとデートするよ。と定型文みたいに言う。
いや、あなた寝る前にアプリゲームしてるよね?
私が睨んでいるのが分かるのか、タイピングを続けながらも雑渡さんはくすくすと笑う。
「で、何のご用?」
「夜食か飲み物いるかな? って」
「んー、もう少しで終わりそうだしいいや。ありがと」
「じゃあ飴だけ置いてく」
机の端にドロップスの缶を置くと、雑渡さんはようやく視線をラップトップから外した。
「ハロウィンのお菓子かと思ったけど、ただのドロップ?」
「うん。あげる」
「ありがとう」
雑渡さんがふと顔を上げて、パジャマ姿の私を見た。
「名無しさんちゃん、お風呂入ったの?」
「うん。お湯抜いて掃除しちゃったけど、寝る前にもう一度入るんだった?」
「いや、聞いただけだよ。ご苦労さま。いつもありがとう」
「私もう寝るね」
「ああ。おやすみ」
「おやすみ」
そそくさと寝室に向かうとベッドに飛び込んだ。
雑渡さんに渡した缶の中身は、私の苦手なハッカドロップだけだ。
ハロウィン仕様のお菓子は巷に溢れかえっていて、年々増えるそれらはお祭りっぽくて楽しそうだと思いつつ、乗っかるのもなんだか癪で今年もスルーするつもりだった。それなのに雑渡さんは、職場の女の子が配っていたというお菓子を持って帰ってきた。
「名無しさんちゃんにあげるよ」
ダイニングテーブルにぽんと置かれたそれは、とっても可愛かった。
そりゃあ、職場でお菓子くらい貰うでしょうよ。私だって貰うよ。でもなんかこう、すごくもやもやするのは「ハロウィンにお菓子を配る女の子を可愛いと思ってない? スルーした私のこと可愛げないとか思ってない?」という、どうしようもない感情で、ハロウィン云々を抜きにしても私が可愛げないのは事実で、要は焼き餅ってことだ。
ベッドの中でうとうとしていると、背後で寝室のドアが開く気配がした。廊下の光が射し込んで、壁を照らす。
「名無しさんちゃん、怒ってたんだ?」
ちょっと面倒くさそうな雑渡さんの声。
カランカランと響くのはドロップスの缶を振っている音だろう。音からして、幾つか食べたんだろうな。
そう思ったところで覚醒する。
「あのお菓子可愛いから名無しさんちゃん喜ぶかと思ったのに。あんなので焼き餅焼いたの?」
見透かしてるなら聞くな。
「寝たふり?」
だから、見透かしてるなら――
ドアに近い側のマットレスが沈んで軋む。
これは、と身構えた瞬間、肩に手をかけられて、癪に障るから全力で抵抗したにもかかわらず、男の力にあっさりと負けた。
薄荷の香りが鼻へ抜ける。
もう抵抗していないのに、わざとらしく両手を押さえつけられる。
雑渡さんの舌が巧みに動いて、生温かいドロップを私の口の中に押し込んだ。それが私の歯に当たってこつんと音をたてると、雑渡さんは唇を離して満足そうに笑った。
「名無しさんちゃん、Trick or terat!」
「終わってから言わないでっ!」
「まだ何もしてないけど」
「したでしょ!」
「今のは悪戯じゃなくてお仕置き」
と、しれっと言う。
何で私がお仕置きされなきゃいけないの! と返す前に、雑渡さんはまた私のを心中を見抜いた。
「いつも食べてあげてるけど、私だって別にハッカ好きじゃないからね」
つまり、自分で食べろってことか。
「もうっ! 歯磨いたのに」
「まだ寝ないでしょ」
「寝てたでしょ」
「寝かせないよ」
そう言って、雑渡さんは私の胸に顔を埋めて静かに溜息をついた。
ああ、疲れてるんだな。
手を伸ばして髪を撫でた。男の人の、硬い髪。図体のでかい子供みたい。
こんな風に力の抜けきったこの人を知っているのは私だけかもしれないと思うと、ますます愛おしくなる。
「お腹空いたから、やっぱり夜食作ってくれる?」
甘えた声音に、快く頷く。
「何がいいの?」
「雑炊」
雑炊はお決まりのメニューだ。いつでも作れるように、雑炊に入れられそうな食材を常に冷蔵庫に揃えるようになってしまった。
「今日はきのこ雑炊?」
「うん。見なくていいから。あっち行ってて」
カウンター越しに覗いていた雑渡さんに向かって手で追い払う仕草をすると、彼にしては珍しく素直にリビングに行った。
冷や飯を洗って、三つ葉を切る。
雑渡さんは「美味しいよ」と言ってくれるものの、その表情を見ている限りでは本当の及第点が出たことはない。
いつか、本当に美味しいと言ってもらえる雑炊が作れるといいんだけど。
できあがった雑炊を運んでいくと、雑渡さんはソファーにいつもの横座りで携帯をいじっていた。
「雑渡さん、その座り方やめてよ」
「何で?」
「整形外科通いになるよ」
「はいはい」
心配して言ってるのに、いつも軽くいなすんだから。でもこれ以上は口うるさく言うまい。
雑炊をテーブルに置く。
「どうぞ」
「ありがとう。いただきます」
出汁の香りが漂う中で、雑渡さんの言葉を待つ。駄目出しは滅多にないけど。
「うん。今日の雑炊も美味しい」
それはどうも、と素っ気なく答える。雑渡さんの読みづらすぎる表情からは、やっぱり本心なのかどうか分からない。
もっと分かりやすく表情が変わるくらいの、とびきり美味しい雑炊が作れるようになりたいな。
「ところで、名無しさんちゃん」
「ん?」
「そろそろ苗字で呼ぶのやめてくれないかな。名無しさんちゃんだってもう『雑渡さん』なんだし」
すっかり馴染んだ呼び方を今更変えるのは難しい。入籍するずっと前から一緒に住んでいたし、本当に今更といった感じだ。
「……もう悪戯しないなら、名前で呼んであげてもいいよ」
「悪戯しないのは無理だねぇ」
でしょうね。
「じゃあ……お菓子くれるなら、いいよ」
雑渡さんは意外そうに目を見開いた。私が素直に彼の提案に乗るとは思っていなかったのだろう。
でも、私だって本当は切っ掛けがほしかったんだから。
「ケーキでいい? モンブラン?」
「渋皮の」
「他には?」
「……昆奈門さんに任せる」
ドキドキしながらそう言うと、夫は曲者みたいににやりと笑った。