雨音

 目が覚めて、家の側に河ができたのだろうかと考えた。
「……そんなわけはないな」
 強い雨が窓ガラスを叩いているが、薄暗いのは天気のせいだけではないようだった。
 随分と寝過ぎたもんだ、と起きあがるのを見計らったかのように携帯が鳴った。面倒に思いながらも手に取ると、恋人の名無しさんからだった。
「名無しさん、どうした?」
 返事はなく、強すぎる雨音ばかり耳に届く。 
「名無しさん?」
「……来て」
「仕事終わったのか? おい、よく聞こえない」
 雑音が大きく聞こえると、すぐに切れてしまった。
「雨のせいか」
 かけ直すのも面倒で『駅まで迎えに行く』とだけメッセージを送信し、携帯をポケットに突っ込んで財布と鍵を手に部屋を出た。

 待たされるかと思ったが、駅について着いてすぐ名無しさんは車に乗り込んできた。
「ありがとう! この雨だから助かったよ。今日、お休みだったんだね」
「はぁ?」
「怒らなくてもいいじゃん」
「仕事中のつもりで電話かけてきたのかよ」
「電話って?」
「だから、お前が来いっていうから来てやったんだろうが」
「……それ、別の女じゃない?」
 わざわざ迎えに来てやったのに、腹の立つ女だ。
「お前じゃなきゃ誰だっていうんだよ。履歴見てみろ」
 意味わかんない、と言いながら名無しさんは俺の携帯を手に取る。
 それは俺の台詞だ。
 車を走らせながら名無しさんが謝ってくるのを待つが、黙って携帯をいじっている。まさか余計なものを見ているんじゃないだろうな、と焦ったのと同時に名無しさんが口を開いた。
「最新の着信は白目くんだけど……それも昨日だし。履歴消したんじゃないの」
「履歴消したのにお前に話してどうするんだよ」
 半ば呆れて名無しさんに言いながらも、寝ぼけて勘違いでもしたのだろうかと首を傾げる。
 まあ、この雨だ。こいつを迎えに来てやったのは正解だろう。そう思ったそばから雨が強まり視界が白くなる。
 不意に着信音が鳴り、それとほぼ同時に名無しさんが小さく悲鳴を上げて俺の携帯を落とした。
「何やってんだよ」
 名無しさんは携帯を拾う素振りを全く見せない。
「おい、こら。落としっぱなしかよ」
「だって……だって」
 怯えたような声を怪訝に思いながら、車を路肩に止める。その間ずっと、のんきな音楽が車内に響いている。
「びびりすぎだ。誰からなんだ」
 そう言いながら助手席の足下に手を伸ばし、拾い上げた携帯の画面を見て俺も凍り付いた。
 それは名無しさんからの着信だった。
 互いに状況を理解しきれないまま、顔を見合わせる。
「携帯確認しろ」
 名無しさんは頷くと鞄の中を探る。
「あ、切れたぞ」
 と言ったのと同時に、名無しさんは携帯を取り出した。
「ねぇ……やっぱり私の携帯からじゃないよ」
 促されるまま携帯を覗いてみると、確かに発信履歴の新しいものは名無しさんの家族と友人で、俺の名前は数日前のものだった。
「今の何だったんだろうね?」
 首を傾げながら名無しさんが言った途端、再び車内に着信音が響き始めた。表示されているのはやはり名無しさんの名だが、彼女の携帯はスリープ状態になっている。
 明らかに怯えた表情で名無しさんは俺を見た。
「心配するな……混線かもしれない」
 鳴り続ける携帯を放置するわけにもいかず、応答しようとした俺の腕に名無しさんがすがりついてきた。
「やっ……怖い」
「しっ、黙ってろ」
 小声で言いながら、ヘッドロックをかけるような状態で名無しさんの口を手で覆う。
 俺だって本当はこんな電話に出たくない。
 応答してすぐにスピーカーに切り替えた。
「もしもし」
 毅然とした口調を心がけたが、やはり声が震えた。内心びびりまくってはいるが、名無しさんといる手前、態度には出せない。
 携帯からは人混みとも風の音ともとれる雑音が聞こえる。
「……来て、くれないの?」
 女の高く細い声は、ところどころ雑音で途切れる。
 名無しさんに震える手で抱きつかれると、俺は不思議とそれを心強く感じてしまう。
「申し訳ありませんが、かける相手をお間違えでは?」
「……さん……に、いるの……来て?」
 じじじっ、と機械ともなんともつかない低い音がしたと思うと、アナウンスのようなものが微かに流れているのが聞こえた。活気のある場所に流れる古風なアナウンス。
 何故か子供の頃に親に連れられていった百貨店のイメージが頭の中を駆けめぐり、こんな状況だというのに妙にノスタルジックな気持ちになった。
 懐かしい。帰りたいな。そう思った直後だった。
「一緒に帰ろう」
 半笑いの低すぎる声。
 テレビの砂嵐のような音が大きく聞こえたと思うと、電話は不通になった。
 強すぎる雨のせいで視界は白い。
 雨音が響く車内で、俺たちはしばらく呆然としていたのだった。