もうすぐ彼女が来る。
課題のレポートを終わらせておきたかったのに、どうしても目を開けていられない。仮眠をとろうか、いや、それで仮眠ですんだためしがない。
でも、あと10秒だけ目を閉じていよう。
ガチャン、と少し離れた場所から響いた音で目を覚ました。
ああ、彼女がきた。
半開きになった部屋のドアの隙間から、玄関が見える。チェーンをかけたままだった。
開けてあげなきゃ。
「尊奈門」
「待って、名無しさん」と掠れた声で言いながら立ち上がり、廊下へのドアに手をかけると、驚くような音がした。
開かないと分かりきっているだろうに、名無しさんが力一杯ドアを引いたようだった。
彼女がまた勢いよくドアを引く。
何度も、何度も。
ドアを開閉する音とチェーンが強く引っ張られる音が大きく響く。
怖い。と思ったが、体はとっくに恐怖で竦んでいた。
一度引けば開かないと分かるのに、何故、名無しさんは繰り返しているのだろうか。
ドアの向こうにいるのは、彼女ではないのか? 女の子の力ではないような気がする。
そう考えた瞬間、ゆっくりと音もなくドアが閉まっていくのが見えた。
ひゅうひゅうと隙間風のような呼吸音が聞こえてくる。何者なのか分からない。
鍵のかかる音がした。
そこで飛び起きた。
たかが夢なのに、心臓の鼓動はとても早い。
明るい部屋の中は自分一人。静けさに不安を感じてテレビをつけ、賑やかなバラエティ番組を流す。
「怖い夢だったな……」
怖い番組は観ていないし、ホラー漫画も避けていたのに何であんな夢を見たのだろう。レポートが終わらなくて焦っていたせいだろうか。うたた寝なんてするもんじゃないな。
あいつ、早く来ないかな。
まだバイト先にいるなら、迎えに行こうかな。遅くなると連絡が入っているかもしれない、と考えながら携帯に手を伸ばして、違和感を覚えた。
名無しさん?
苗字名無しさん?
名無しさんが来るわけないじゃないか。
「だって、名無しさんは……」
一昨年、交通事故で名無しさんは亡くなった。
その前の週に喧嘩をしたことをずっと悔やんでいる。一緒にいれば助けられたかもしれない。つまらない喧嘩なんてしなければよかった、と。
今更考えても、名無しさんは戻ってはこないけれど。
突然、呼び鈴が鳴った。
携帯を見ると、21時前だ。
こんな時間に誰だろう。宅配かな。昨日、通販で買い物したけど、それがもう届いたのかな。
考えているうちにもう一度鳴り、慌ててインターホンに出る。
「はい」
「……酷いよ、尊奈門」
抑揚のない声。
「え?」
「酷いよ。開けて。私だよ、名無しさん」声は低く、くぐもった。「尊奈門? 尊奈門。尊奈門、尊奈門、尊奈門尊奈門尊奈門」
声が一際低くなった。
「開けて? 開けて? 開けて? 開けて開けて開けて」
少なくとも女の声ではなかった。
「尊奈門!」
目が覚めた。
息を整えながら、暗い部屋の中で起きあがる。現実感のないまま震える手で携帯をいじって時間を確認すると、午前2時過ぎだった。
嫌な時間だ。
夢の中で夢を見るなんて。
携帯の暗くなった画面に何かが映ったような気がして、慌ててベッドに伏せて置いた。
「まだ寝れるな」
夢の中では終わっていなかったレポートは終わっているし、今日はバイトがある。暑いからしっかり眠らなくちゃ。寝不足のせいでつまらないミスをしたらまた高坂さんに怒られる。
「本当に、嫌な夢を見ちゃったな。どうしてあんな夢……」
亡くなった彼女なんていないし、そもそも彼女すらいたことがない。怖かったけれど、恋人を待つ間の気分はよかったなぁ。
出会いがないわけではないけれど、知り合って一回、二回のデートをしたからといって恋人になれるかというと全く別の話で、そう考えるといい出会いはない。
今のところアルバイトオンリーな夏休みの予定を変更すべきだろうか。
「お腹が空いたな」
間抜けに鳴いた腹をさする。
このままでは眠れそうもないし、何か食べてから寝よう。
山本さんに頂いたお徳用パックを開ける。
食べながらちょっとだけ、何か動画でも見ようかな。うっかりすると朝になってしまうよくあるパターンを予想しつつも、バリバリと煎餅を齧りながら携帯を手に取った。
2:17――
背後で鍵の開く音がした。