昨日は楽しかったね

「やっぱり名無しさんに運転代わってもらえばよかったな」
 久々の一泊旅行の帰り道、昆奈門がぽつりと言った。
「疲れた? ごめんね。私が我が儘言って寄り道したから」
「そういうわけじゃないんだけどね」
 と答えながら、彼は静かな音楽が流れるラジオから、CDに切り替えた。
「昨日、そのCDうるさいから嫌だって言ったくせに」
 行きも帰りも長距離のドライブになるので話の種にでもなればいいと、自宅の棚から懐かしいCDを引っ張り出してきたのだが、昆奈門の好みにはこれっぽっちも合わなかったようで3曲流したところで止められてしまったのだった。
 それなのにどうして今になってそのCDをかけるのだろう。眠くなってしまったのだろうか。
 何か喋った方がいいかと思い、話題を探す。
「昨日は楽しかったね。宿もよかったし」
 私の口調がわざとらしかったのか、昆奈門は小さく笑った。
「うん。今日は? ご不満?」
「楽しかったよ。でも、ほら……もう帰り道だから、帰りたくないなって気持ちが強いかな」
「このまま遠くに行っちゃう?」
「10歳若かったらね」
 夏とはいえ19時を過ぎたので、辺りはもう暗い。寄り道のせいで遅くならなければ、県境の峠へ向かうこの道は景色が綺麗に見えただろう。
 往路は緑が綺麗だった。
 特徴的なうどん屋の看板を通り過ぎたところで、昆奈門が静かに言った。
「夢を見たんだよ」
「ん?」
 賑やかな音楽に気を取られて、一瞬聞き逃してしまう。
「夢」
「ああ、うん……昨日? 旅館で?」
「そう。名無しさんと車に乗ってるんだ。知らない道を走ってて、市内にこんな場所あったかな、って考えてると名無しさんがさっきみたいに『昨日は楽しかったね』って言うんだよ」
「それで?」
「それでね、ふと道路脇の看板を見て『旅行に来てるんだった』って思い出した途端、夜になってるんだ」
 人が見た夢の話はつまらないというけれど、案外夢の話を聞くのは楽しい。好きな相手だからだろうか。
 付き合って三年になるけれど、この人のこんな聞くのは初めてかもしれない。
 昆奈門は話を続ける。
「そのままずっと山道を登っていくんだ。どこまで行っても鬱蒼として曲がりくねった山道」
「この先から、そんな感じの道だよね。昨日もずっと運転させちゃったせいかな」
「どうだろうね。夢の中だと、人家なんて絶対にないような場所で、白いスカートの女の子とすれ違うんだ」
 タイミングよく曲が終わり、一瞬車内が静まりかえった。
「ちょっと!」
 ステレオのボリュームをあげる。
「やめてよ、怖い話なんか」
 私が声を張り上げると、昆奈門はくすくすっと笑ってルームミラーを見た。
「前言撤回」
 と、昆奈門は真顔で言う。
「何のこと?」
「名無しさんと交代しなくて正解だった」
 ヘッドライトが木々を照らしながら、曲がりくねった道を進む。
 確かに私の運転では危なそうだ。
「事故るから?」
 んー、と昆奈門は誤魔化すように唸った。
「それもあるけどね……さっき通り過ぎた看板がそっくりだったんだよ、夢の中のと」
 うどん屋の看板が脳裏に浮かぶ。
「からかうのやめてよ」
「看板は同じだけど、夢とは違うみたいだね」
 ほっとしたのも束の間、昆奈門が小声で言った。
「後ろは見ない方がいいよ」