「利平」
「はい、親方」
料理番の親方は、よくよく見れば決して似てはいないのだが、時折私に父を思い起こさせた。しかしそれも初めのうちだけで、いつしかそう思うことはなくなった。
厳しくも優しいこの男を、端から騙しているのだと思うと心苦しくなることもあった。
だが、それが己の仕事であり、任務を遂行するために手段を選ばないのは忍の常。
いついかなる時も自分にそう言い聞かせてきたが、それでも小さな棘のようなものが胸に刺さることは多々あった。
甘さ故か、人間故か。
私だけかと誰に問うこともできぬまま。
あれはまだ城に来てすぐの、暑い日のことだった。
頼まれた用事を終え、額の汗を拭いながら厨へ戻ると、親方以外は皆出払っていた。
「利平」
親方が目顔で示した先には、笊に乗った一つの瓜。
「はい。これは……」
「見りゃわかるだろうが。瓜だ」
それはそうなのだが。
はて、調理すればいいのだろうか。
私がそう考えているうちに、親方は僅かに渋い顔をして瓜を手に取ると、包丁で二つに割った。
「半分やるよ」
差し出された瓜を受け取る。
「後で食いな」
ああ、そうか。
こんな単純なことに思い至らなかったとは、暑さにやられてしまっただろうか。
「ありがとうございます」
やるべきことをすっかり片づけてから、瓜を手に表へ出た。
夏の日差しが作る濃い影が、足下に落ちていた。
生ぬるい風が吹くと、今は揺れる前髪がないのだったと気が付いて、ひとり小さく笑った。
まだ青いように見えた瓜に、知らぬ間にのどが渇ききっていたことを教えられた。
親方がくれた瓜は、思いのほか甘かった。
暑さが少しずつ薄らぐと、瞬く間に秋の香りが漂い始めた。
「利平、これを頼む」
任されることも増えてきた。
「利平! 何やってんだ」
時には叱られることもある。
「うまいじゃないか、利平」
褒められれば、悪い気はしない。
利平、利平、と親方は、私の名に似たそれを呼ぶ。
利平は働き者で素直で明るく、少し頼りない。演じているつもりが、ふとした瞬間に、自分のどこか奥底の方には確かに利平がいるのだと自覚させられる。
近しい人間に見せるには、今更どうにも照れくさいような自分。
遅かれ早かれここを出るのだから、今の私は利平なのだから、ここでは少しくらいそれを見せても構わないだろう。
仮初めの姿、仮初めの関係。
任務。
欺瞞。
直、全て終わる。
親方といるのは楽しかった。
私だけがそう思っていたのかもしれないが、どこか親子のような師弟関係は居心地よく、欺く相手ではあったがそれすらも楽しかった。
最後のそのときに申し訳なく思える相手であることが、私は嬉しかったのかもしれない。親方が嫌な人間であったならもっと楽だろうか、と考えることもあった。
つまり、私は彼を好いていた。
ようやくハナイグチ城の内部情報を探る機会がやってきた。
うまくいけば、任務は今日で終わる。
これきりだろうと思い、親方に謝意を述べたが、それは利平の言葉であって、私の気持ちではない。
「どうした。今日でお別れみたいな言い方をするな」
痛んだ胸は、利平のものだ。決して私のものではない。
そう言い聞かせた。
これでいい。
初めからそのつもりだったのだから。
いつだって、そうしてきたじゃないか。
夕日の中、忍装束に着替えた。これから城を出て、依頼主に報告に行く。それで終わる。
小さな棘が刺さったところから、少しずつ膿んでいくような気がした。目に見えぬほどのそれは広がり続け、果ては腐れ落ちるのではないかとさえ思う。
だが少なくとも、それは今ではない。
未練を断ち切るように、頭巾を強く結ぶ。
「利平!」
茜に響いた声の主が誰なのか、振り返る前に分かっていた。
「親方――」
そうだったのか。
親方が忍者だということに驚いたと同時に、ほっとする自分がいた。
彼を騙さずにすむ。
欺いていたのは私だけではなかったということだ。
よかった。そう思ったのも束の間、「私が疑われるかもしれない」という言葉が体を貫いた。
これまではどうだったのだろう。私のせいで命を落とした者もいたのだろうか。ひとりくらいは、いるだろう。
何故今まで思い至らなかったのか。私はあえて考えないようにしていたのだろうか。
だが、考えたところで優先すべきは任務であり、残される者のことなど二の次だ。必要ならば欺き、いざとなれば見捨てる。例えそれが好いた者であっても。
だからこそ、情を移してはいけない。
いや、今はそんなことはどうでもいい。
「利平、おまえは行くがいい。ただし、その前に――」
嗚呼、そういうことか。
「私を倒してゆけ」
親方の武器を苦無で受けると、火花が散った。
重いそれを、ぐっと跳ね返す。
勝負はすぐについた。
城を背に、夕日の射す道を走る。
二、三度切り結んだ後、勝ったのは私だった。が、勝たせてもらったという方が正しいだろう。
恐らく本気で戦ったならこちらが負けた。経験の差。
そもそも、私は端から親方に負けていたのだ。
親方は勝たせてやったとも思っていないだろう。あの人からすれば、私など勝負の相手にならない。
それほど、私は未熟だということだ。
彼に教えられたのは、料理だけではなかったようだ。
今になってみると、どこからどこまでが彼の手の内だったのか。判りそうで、解らない。
わかっていたら、親方が忍者だと見抜けていただろうが。
夕日が落とす影にまで、「まだまだ甘い」と告げられた気分になる。そう、この瞬間でさえ親方の策のうちなのかもしれない。
些か考えすぎか、と自嘲する。
もう利平と呼ばれることもないだろう。
恐らく親方は彼の任務を終えるまで、あの城で料理番を続けるのだろう。
いつかまた弟子をとることもあるのだろうか。
きっとあるだろう。
利平ではない、いい料理人になりそうな働き者の若者。暑い夏の日には冷えた瓜を切ってやるのかもしれない。これまでの十数年も、あの人はそうしてきたのかもしれない。
どうであれ、私にはもう関係のないことだ。
それでも――
「預けておく」
親方の武器を持ち去ろうとしたとき、そう聞こえた気がした。
私は「また」とは言わなかったし、言うつもりもなかった。
縁があれば機会は自ずと巡ってくるだろう。
相見えずとも、それもまた縁か。
仕事を終えた開放感とも達成感ともまた別の、満ち足りた気持ちを抱えて走り続ける。
これからも胸に刺さる棘は増え続け、抜ける日は決して訪れないだろう。静かに重く、痛み続けるのだろう。
だが、とうに覚悟はできている。
それでも今、私の心は嘘のように晴れやかで、軽い。
こんな日は、滅多にない。