初恋の人

 その男はすでに死んでいた。
 広がる生温かい血液が、震える私の手を赤く染める。
 欲しかった情報はもう得られない。
 私がフリーの忍者になってから――売れっ子にはほど遠い腕前ではあるが――任務に失敗したのは初めてだ。そう難しい任務ではなく油断したわけでもない。ただ運が悪かったのだろう。運も実力のうちだ。
 気配を感じ、その先に視線をやる。
 立っている男には見覚えがあった。
「名無しさん……?」
「……利吉?」
 見つめ合う一瞬の間に、遠い思い出が駆け巡った。
「あなたが?」
 転がった男の亡骸を指す。
「違う。行こう、ここにいてはまずい。」
 抵抗虚しく軽々と抱き上げられ、瞬く間に利吉は屋敷を出る。
 端正な顔は幼い日の面影を残したまま、それでもすっかり大人になった。そういえば利吉の母は美しかった。
「名無しさんと会うのは、何年ぶりかな。」
「八年、かな。」
 ふうん、と静かに言って利吉はそれきり黙り込んだ。
 山へと入り隠れるのにうってつけの場所に着くと、ようやく私をおろした。
「名無しさん。」
 利吉は私の隣に腰を下ろす。
「あの時はごめん。」
「……何が?」
「その……嫌いだって言ったこと。でも君が覚えてないならいいんだ。」
 覚えている。あれほど悲しいことはなかった。その出来事のすぐ後、一月ほど厄介になっていた利吉の家を出たから殊更。
 嫌いだと言われたことも、好きになってはもらえないのだと思ったことも、本当は優しい利吉のことも今日まで忘れずにいた。
 覚えていたわけではない。ただ忘れられないのだ。
「……覚えていない。八年も前の、そんなこと。」
「そうか。」
 利吉は自嘲気味に笑った。
「そうだよな。」
 でも、と言う利吉のそれは荻の声のようだった。
「私は本当は名無しさんのことが、好きだった。」
 もう十二分に大人になったと思っていた。それが何故、これしきのことで十の子供に戻ってしまうのだろうか。手練手管も策も知らぬ十の子供でしかいられないのだろう。
 何も言えない。今更言って何になる。ただ未練だけが残るじゃないか。
 物言わぬ私に利吉は優しく声をかける。
「任務が終わったら迎えにくる。少しの間、我慢してくれ。」
「いいよ……もう家族は誰もいないから。」
 私を覗き込んだ利吉の顔に影が差し、泣いているかのように見えた。その中に十歳の男の子が垣間見え、胸の中を夏嵐が駆け巡る。
 利吉は私にそっと口付けた。
 こんなものだったか。
 それぞれに男を知り女を知り、それでもなおこんな気持ちになれるのか。
 遊んだのは草原の海。揺らしたのは山の若枝。苔の上に寝転んだ利吉の髪には木漏れ日が揺れ、取っ組み合いの喧嘩をすれば利吉の母に叱られた。
 普段はつんとすましているくせに、時々寂しそうな顔を見せる利吉。ちょっとからかえばすぐにむきになって怒りだす、私を嫌いだと言った憎たらしい、今になれば可愛らしくも思える利吉。
 初恋の人。
 全てがゆっくりと終焉に向かって弧を描く。
「名無しさん。」
 利吉は私の口に丸薬をそっと押し入れた。流し込まれた水とともにそれを飲み込む。得体の知れないものだが、利吉を信じた。
「痛みが消えて、眠れるはずだ。」
 気丈に言う利吉に向かって、口元に微笑を浮かべる。
 本来ならば任務を優先させるべきなのに、知人に手を貸すなど利吉もまだ甘い。彼の今後を案じながらも今はただ嬉しく愛おしい。これから先、辛い出来事は幾重にもこの人を襲うのだろう。その時に私が支えになれたなら、彼の小さな安らぎになれたなら。
 瞬きする刹那、幸福な夢を見た。
 けれども今、幸福を与えられているのは私。初恋の人に抱かれて花と散る。
 利吉の着物は私の血で赤黒く染まってしまった。
 洗っても洗っても、落ちぬほど。