君を知る前

「土井半助さん、好きです。私と付き合ってください。」
 顔を真っ赤にして泣きだしそうな様子で目の前に立つ苗字という生徒のことを、私はその日までよく知らなかった。クラスと名前が分かる程度で、部活も委員会もどこに所属しているのか知らない、すぐに大勢に埋もれてしまうような目立たない生徒のひとりだった。
 なにも修学旅行中に告白なんてすることないだろうに。いや、修学旅行だからするのだろうけれど、教師からの答えなど決まっている。
 本当は学校生活くらいは楽しい思い出だけにしてやりたいのに。
「ごめん。先生は、苗字とは付き合えないよ。」
 苗字の少し癖のある髪が風で揺れたように見えたが、揺れたのは彼女だったのかもしれない。
「はい。私の方こそ、突然すみませんでした。」
 そう言った苗字の目から零れた涙を隠すように、彼女は一礼すると制服のスカートを翻して私の前から立ち去った。
「土井半助さん、か。」
 背伸びをしたつもりだろうか。
 女子高生の考えることはよく分からない。
 半助と小生意気な生徒に呼び捨てにされることは時々あるが、フルネームで呼ばれたのは案外初めてかもしれない。だからどうだというわけではないのだが、罪悪感と一緒に胸のどこかに引っかかった。

 秋が終わり冬が過ぎて、新しい春がやってくる頃、いつの間にか私は苗字を見つけるのがうまくなっていたが、苗字はもう私を見てはいないようだった。彼女の視線に気付いたことはなかったが、どのくらいの間、苗字は私を見ていたのだろう。知りたいと思ってしまう自分を何度か咎めた。
 あれ以来、苗字と話す機会もないまま卒業式の日を迎えた。
 式を終えてほとんどの生徒が学校をあとにし、私も職員室に戻ろうとしたときだった。
「土井先生。」
 後ろから呼び止める声の主にすぐに気が付いて、どきりとした。彼女の次の言動を、予測するのではなく期待している自分に戸惑いながら振り向く。
「苗字……卒業おめでとう。」
 苗字は切羽詰まった雰囲気もなく――時にはこちらが本当に困り果ててしまうほど、思い詰めた様子で想いを打ち明けてくる生徒もいるのだ――顔を赤くしてはいるが、拍子抜けするほどあっさりしたものだった。
「土井半助さん、好きです。」
 まだ冷たい春の風が苗字の髪をそっと揺らし、私の心を僅かに動かす。
「どうして、先生って呼ばないんだ?」
 思わずそう聞くと、苗字は目を丸くした。
「あ、いや……怒っているわけではないんだ。気になって。」
「土井先生の『先生』の部分って、土井半助に含まれてると思って。」
 よく分からずに首を傾げると苗字は両手を胸の辺りで振った。
「意味分かんないですよね! 忘れてください。」苗字はぐっと顎を引いて、頬を染めたまま微笑んだ。「あの、今日まで……ありがとうございました。」
 頭を下げて、すぐに苗字は逃げるようにスカートを翻す。
「苗字。」
 立ち止まった苗字の背中に向けた言葉は自分でも耳を疑うようなものだった。
「もし、3年後に――」

 
 間違えたと思ったあの日から、どのくらい経っただろう。短いようで長い日々。生徒じゃない君を知る、その前には戻れなくて、立ち止まらなきゃと思う心と裏腹に一歩ずつ前に進んでいく。
 どうか忘れていてくれと願いながら、私の心に深く刻まれていく名前。
 3年が過ぎたのに、苗字を見つけるのは得意なままだった。今日までそれを確かめることはできなかったが。
「絶対に来ないと思った。」
「絶対?」
「絶対。」
「それなら、先生はどうして来たんですか?」
「覚えていたから。」
「私も、覚えてました。」
 そう言って微笑む苗字。3年前よりずっと明るい色の、ゆるく巻かれた毛先が揺れる。
 君をまだ知らない。
 それでも私の心は彼女を欲しがる。どうしてだろう。他のたくさんの人たちと苗字は一体どこが違うのか、私はまだ分からないでいる。
 だからそれを知るために、今日ここへ来た。
「土井半助さん。私――」
「待て、だめだ。」
 苗字の口を手で覆う。
 どうして、と彼女は目で訴える。
 会ったら必ず言おうと、何度も心の中で繰り返していた。一度も口には出せず、今日初めて音にする。
「苗字名無しさんさん、好きです。私と付き合ってください。」
 こんな告白、最初で最後だろう。
 けれども#苗字#が頷いたとき、また違う二度目もあるかもしれないと思った。
 今よりずっと彼女を知ったその先に。