私は今でも年に一度か二度、炎の中にいる。
はっと飛び起きれば暗闇の中。己が生きているのだと気付くのに幾分かかかるが、それが夢だったと分かるのはもっと後のことで、火傷の疼きと激しい鼓動、大量の汗が私に夢だったと告げる。
傷が疼いて見せるのか、夢のせいで疼くのか。薄明かりの中で包帯を巻き替える頃には、焼かれながら何を思っていたのか少しも思い出せはしない。着替えてしまえばもう、夢はただ夢、過去は過去。だからといって眠れるわけでもない。
恋人の顔が見たいと思うが早いか、彼女の元へと向かった。
深々と更けた夜の色に染まる前にと早足で訪れた名無しさんの家は、当然ながら寝静まっていた。
普段と同じようにそっと忍び込み、更には名無しさんの布団にも潜り込んでみるが、彼女は変わらず規則正しい寝息をたてている。しばらく待ってみたものの、一向に目を覚ます気配がないので頬をつついてみると、ようやく名無しさんの瞼が開く。
名無しさんは寝ぼけ眼で私を見つめながら、おもむろに口を開く。
「……昆奈門さま。」
「夜這いに来たよ。」
わざわざ冗談と分かる口調でそう言ってみると、名無しさんはくすりと笑う。
「起こしてすまない。眠りなさい。」
抱きたい気持ちもあったが今は寄り添えば十分に思えた。名無しさんの首の下に腕を通し、彼女の頭を自分の肩に乗せる。身を委ねる名無しさんを抱きしめると、夜闇と微かに残る日差しの香りがした。
「……夢を見た。」
「今宵は風が強いですからね。」
そのせいか、とこちらが思わず頷いてしまうような口調で名無しさんは言うと、私に回している腕に力を込めた。小さな名無しさんが大きな私に抱きついているという格好なのに、私はすっかり彼女に抱きしめられているような心地になって、まるで母子のようだな、と口の端で笑う。
どんな夢かは言わない。
口に出すのが恐ろしいのか、女人に聞かせるにはおぞましい夢だからなのかは自分でも分からない。それでも私はいつかこの女に話すのだろう。聞いてもらいたいと思う日がやってくるのだろう。それは名無しさんに惚れているからではなく、これが知らぬ素振りができる程度には聡く、気取れぬほど無垢で無知ではないからだ。
夢の話をする日は来ようが、全てを語る日は来るまい。
「そろそろ、」名無しさんの声が直に体に響いて心地よい。「雪が降りそうですね。」
「まだ少し先だろう。」
「そうなのですか?」
「ああ。」
素直に頷く名無しさんを見ていると、ふいに口をついて出た。
「名無しさんは、私の容姿を厭だと思ったことはないの?」
唐突な問いに二、三度瞬きした後、彼女は首を振った。
「一度も?」
「考えたことがありませんでした。」
「初めて見たとき、怖くはなかったのか?」
「怪我をされているのかな、と。あとは大きな方だとは思いましたけど――」名無しさんは暫し口を噤む。「昆奈門さまは昆奈門さまだとしか。」
「なるほど。」
だからこれといると気安いのか。
己の見てくれを気にしているつもりはないし、その気になれば変装することもできるが、そうしたところで真の私はこれなのだからどうしようもない。外見は本質ではないが、本質が風貌に表れていないとはいえない。名無しさんの言うとおり、良くも悪くも私は私なのだ。
これはほんの少しだけ変わった女だ。特別美しくもなく、純真無垢でもなく、何かに長けているわけでもない。むしろ少々鈍いようにすら思える。
けれど、私には尊い女。
私はこの女のためではなく、この女といたいがために、何度でもあの炎から戻るのだろう。
名無しさんにその価値はある。
名無しさんを初めて見た日、私は墨をこぼしたような気持ちになった。
拭わなければ、と少し慌てて、同時にどうせ拭いきれないだろうとも思った。あの黒い染みがまさか恋になるとは思わなかった。
目を凝らして探せば見つかるのだろうが、その墨は黒衣にすっかり馴染んだ。まるで一つになってしまったかのように。
しかし判っているのだ、一つになるなど夢想だと。
「名無しさん。」
名無しさんの顎に手を添えて上を向かせ、そっと顔を寄せる。
本当はいつも躊躇う。
私のこの唇で、名無しさんに口付けていいのかと。どうか、どうか拒絶しないでくれと、強引に腰を抱きながらきつく目を瞑るのは、私を拒む顔を見なくてすむように。
名無しさんと唇を合わせるより、謀殺や計略を巡らせることのなんと容易いことか。
それでも手薄になった守りをくぐり抜け、名無しさんの口内を思う様犯す。こちらにおびき寄せようと何度試みても名無しさんは決して門からは出てこないが、その代わりのように漏らす甘い声を喰らいつくすように深く口付けてやると、彼女はぎこちなく私の身体に手を這わせる。
名無しさんの寝間着の帯を解き、滑らかな肌を一通り撫で回した後で二つの膨らみを揉みしだくと、直に小さな尖りが現れる。可愛らしいそれを手のひらで転がし、名無しさんの艶めかしい吐息を聞きながら指先で摘む。
焦らしているのか、焦らされているのか。
「あっ……」
口に含んで舐ったところでとうとう名無しさんは堪え続けていたであろう嬌声を漏らした。
「このまま、抱いていい?」
名無しさんの寝間着を全て取り払いながら、からうように訊ねると、彼女は手で身体を覆い隠そうとしながら睨めつけるように私を見た。
ああ、たまらないな。
「そうやってそそる顔をして、一体私をどうするつもりだ?」
「昆奈門さまっ!」
窘められたことに笑いながら口付けると、名無しさんの両手は私の首に縋る。浅く、深く、また浅く。口付けを楽しみながら、指先は名無しさんの柔らかさを確かめる。甘い香りのするなめらかな肌に舌を這わせつつゆっくりと降りていくと、名無しさんは時折小さく息をはく。内腿に口付けようとしたが膝を合わせて拒まれたので、諦めて名無しさんの唇を奪いに戻った。
申し訳程度に抵抗されながら、名無しさんの脚の間に手を差し入れ、そこに指を這わせると彼女は小さく体を震わせた。
恥じらう名無しさんの頭をそっと胸に抱き寄せながらも、指先は彼女の熱い泉のようなそこを探り続ける。段々と名無しさんの身体が緩まれば私の欲望は膨れ上がり、奪いたいのか与えたいのか分からぬままに指を深く沈めると、名無しさんは小さな叫び声を飲み込んだ。消えたそれが聞きたくて、小刻みに揺らすと彼女はようやく甘く鳴く。
名無しさんは指を締め付けながら、恥ずかしそうに私の胸に顔を埋めた。
熱いくせに赤く染まらぬ白い肢体は恥じらいながらも私を誘うように動く。抑えた声。噛み締めた唇。切なげな瞳で息を継ぐ。ふと漏れた声に情欲がまた掻き立てられる。
名無しさんから指を抜いてすっと内腿を撫でると、今度は素直に私を脚の間に招き入れた。滑らせた指でも這わせた舌でも味わい尽くせぬ彼女の中に深く沈み込む。
僅かに強ばる体に倒れ込めば、小さな手が私を掻き抱く。
熱い吐息の合間にこぼれ落ちる互いの名が首筋を湿らせる。
抱き合ったまま喜びを噛みしめると同時に、包帯越しの抱擁にもどかしさを感じる。名無しさんが私を私として受け入れれば受け入れただけ、火傷が静かに疼く。私の肌も左の眼も名無しさんを知らない。
彼女を貪れば貪るほど、私は孤独の味を知る。
「名無しさん。」
名無しさんが小さく頷いたのを合図に動き出せば、乳房が小刻みに揺れ、愛らしい声が律動に合わせて漏れる。
口を覆っている手を外してやれば、熱っぽい目で責めるように私を見上げる。
腰を掴んで彼女の中に深く沈む度、私を離すまいと蠢く彼女を感じながら、それが欲望なのか愛なのか判らぬまま名無しさんの名を口にする。
「んっ……昆奈門、さまっ……」
ようやくはっきりと名を呼ばれ、身体の芯がぞくりとした。
苦しそうに反らせた白い首を舐って、名無しさんの脚を持ち上げて腰に絡ませる。ずっと眺めていたいが今すぐに終わらせたい。
互いに満たされるのにそう時間はかからなかった。
夜明けが近い。
この双眸に何を見ているのだろうと、眠る名無しさんの顔の輪郭をなぞる。
これはなんと不思議な生き物だろうと時折考える。あどけない顔で寝息を立てて、何故ここまで私を信用できるのだろうか。
こんな私を。
生き延びたことに意味はあったのだろうかと、ふと考えることがある。そして私自身の価値についても。だがそれらについて考えるなど愚かしく、ただ生きているというだけで、それほどの意味も大した価値もない。為すべきことはあるのかもしれないが。
去った者も失ったものもあるが、残ったものは申し分なく、小頭から組頭になり、忍軍を率い城のために働く現状に不満はない。
それでも何かがざらざらと両の手からこぼれ落ちているような心持ちがして、そうはしたくないにもかかわらず足を止めて振り返る。そこで何が見えるかというと、何も見えはしない。墨を溶かしたような夜が広がるだけで落としたものなど見えはしないのだが、私は確かに何かを落としているという、ひどく不安な思いを拾い上げる羽目になる。
恐らく今、私は両の手に得体の知れないものを抱えているのだが、名無しさんはほんの一時、それを忘れさせてくれる。
救いと呼ぶにはあまりに貧弱なれど生きるに不可欠な憩い。この一時のために生きているのか、この一時のために生きられるのか。
名も知らぬ者たちのそれを、命をこれまで幾度奪ったことだろう。望んでそうしたわけではなくそうせざるを得なかっただけだが、奪われた者にすれば差異は無いだろう。些か哀れには思うが悔いはない。
慈悲の心など無いくせに、名無しさんにだけは味わわせたくないものだと思う。名無しさんのためならば私はこの血にまみれた手をいくらでも汚すだろうが、さすれば私が彼女のそれを奪うことになるのだろう。
そうしてまた業火に焼かれるのだろうか。
名無しさんの墨のような髪に顔を埋める。
日向の香りがする私の女。
これほど愛しく思っていても、来世ではきっと会えぬのだろう。