「利吉。」
 市場で偶然恋人を見かけて、その名を呼んだ。
 振り返らないのを不思議に思いながら正面に回り込むと、彼は「あっ」というような顔をした。
「……ごめんなさい。人違いだったわ。」
「いえ……。」
 前髪がないし眉尻は下がっているけれど、それは確かに私の恋人だった。よくよく見れば別人の扮装で任務にあたっているのは明らかだ。
 フリーの売れっ子忍者である彼が、こんなところを暇そうに歩いているわけはないのだから、きちんと調べてから声を掛ければよかった。
 恋人の姿を見つけた程度で舞い上がってしまうなんて、くノ一失格だ。
「利平。」
「あ、親方。」
「どうした?」
「なんだか、お知り合いと間違われたみたいで」
 私は二人に会釈して、そそくさとその場を後にした。

 私も幾つか仕事を請け負って慌ただしく過ごしているうちに、冬になった。
「名無しさん、粥ができた。」
 利吉の声に重い瞼を開く。
「起きられるか?」
 久しぶりに訪ねてきた利吉は、何かが少し変わったように見える。風邪による熱のせいもあって、どこがどうとはいえないけれど。
 彼は元々何でもこなせる男だけれど、料理の手つきも以前よりずっと様になっている。
 何があったの、何をしていたの。
 聞けないまま粥を口に運ぶ。
「味は……どう?」
 正直、鼻が詰まっていて味なんて分からない。利吉が眉尻を下げて私の様子を窺っているので、はっきりそう言ってしまうのは可哀想になる。
 今日は前髪があるいつもの利吉なのに、なんだかあの日見た利平みたいだ。
「美味しい。」
「そうか。」
 利吉はこちらが驚くくらい嬉しそうに破顔するくせに、一瞬後には照れくさそうにその笑顔を引っ込めてしまう。
 気がつかなかった振りをして、粥を冷ますために息を掛ける。
「今年の夏は、いいものを見たわ。」
「え?」
 利吉はすぐに私の言葉が指すものを理解したようで苦笑したけれど、何も言わなかった。
 私も仕事の話はしないし、利吉も聞いてこない。けれど時々、たまには何か訊ねてくれたらいいのにな、と思うこともある。応えられはしないのだけれど。
 利吉がそう思うことはないのかしら。
 「風邪をひくのも悪くないかもね、あなたにお粥を作ってもらえるなら。」
 粥を食べ終えてそう言ってみると、利吉はため息混じりに答える。
「冗談言ってないで寝た方がいい。」
 顔を近づけてきた利吉の前髪を手のひらであげてみても、あの日と同じ顔にはならない。それでもどこか奥の方に利平が潜んでいるような気配がある。
 どこだろうと探っていると、ふいに利吉が真面目な顔つきをした。
「……利平の方が、好き?」
 試すような口調なのにほんの僅かに不安そうな声。その中に利平の影が見えたような気がした。
 やっぱり同じ男だった。見間違うわけがない。
「利平? 知らない人だわ。」
 そう言うと、利吉はふっと笑う。
「待って。風邪、うつるんじゃない?」
「名無しさんのなら、構わない。」
 明日から仕事のくせに。そう思いながら目を閉じて利吉の唇を待つ。
 口づけはいつもと変わらない利吉の味がした。